マリリン・モンロー A-Z

B - GLADYS BAKER  グラディス・ベイカー


「愛するマリリンへ。どうぞ、手紙を書いてちょうだい。ここはイヤなことば かり。早く、ここを出たいわ。嫌わないでね。あなたの愛がほしい の。LOVEあなたの母より」

精神を病んだ母グラディスは病院から娘マリリンに手紙を書いた。 1952年、マリリンはスターダムにのし上がったが、両親は死んでしまったとウ ソをついた。
そのことを知ったグラディスは失望した。
マリリンが言ったように死んではいなかったが、長い間音信不通であり、 病院の入退院を繰りかえしていた。
マリリンはいつかは自分も母のように精神を病むのではないかと恐れていた。

「グラディスは美しかったわ。私の知るかぎり、最高の美女の一人でした。や さしい心を持った良き友だちでした。病いに冒されるまでは幸せでした」 (働いていたRKO時代の同僚)


1900年5月24日にメキシコにグラディス・パール・モンローとして生まれる。 1926年に、ノーマ・ジーン(マリリン・モンロー)を産んだとき、前夫ジャッ クは2人の子どもを連れて行方知れず。2番目の夫エドワード・モーテンセン (マリリンの父親と言われる男の一人。スタンリー・ギフォードとも言われる が認知はしていない)もいなくなっていた。

グラディスは20代の半ばで美しかった。女優のグロリア・スワンソンやノーマ ・タルマッジに似ていると言われるほど。幼いノーマ・ジーンをフォスター ・ファミリー(養い親)に週5ドルで預け、フルタイムで働いた。 コロムビア映画でフィルム裁断の仕事をし、RKOスタジオに職場を替えた。

土曜日になると、娘に会いに郊外のフォスター・ファミリーまで行き、夜はデ ートのためにロサンゼルスに戻ってくるのだった。

ノーマ・ジーンが8歳になったころから、グラディスは精神を病み、ノーフォ ーク・ステート・アサイラムに入院した。両親、兄弟ともに同じ病いに冒され ていた。
それから12年間、ノーマ・ジーンと離れて暮らした。

1945年には、グラディスは社会復帰できるまでに回復していたが、ノーマ ・ジーンはそのころ、最初の夫ジム・ドアティと離婚を考えているところだっ た。
彼女はモデルとして名を上げようとしていた。
ノーマ・ジーンが借りたアパートに母を呼び寄せた。

だが、母と娘の幸せな暮らしは長くは続かなかった。
ノーマ・ジーンの仕事が忙しくなり、ハリウッドのスタジオ・クラブに引っ越 し、グラディスはまたアサイラム施設に戻りたいと言った。

それから母と娘は離れ離れの生活が20年以上も続いた。
マリリン・モンローが謎の死をとげるまで。

マリリン・モンローとなった娘は母親に10万ドルの信託財産を残しておいた。 そのお金でグラディスは生活ができたのだが、マリリンの死後はそのお金も底 をつき、何度も自殺を図った。

マリリンの死については、いっさい口にしなかったが、あるとき「あの子は天 使になったの」とぽつんと言ったことがある。

グラディスは病院を出て、再婚。グラディス・エリー夫人となっていた。 1984年3月11日、フロリダのゲインズヴィルで心不全で亡くなった。 84歳だった。
マリリン・モンローとなった娘とは20年以上も会えないままだった。