マリリン・モンロー A-Z
C - JOAN CRAWFORD ジョーン・クロフォード(1904ー1977)
ジョーン・クロフォードとはジョー・スケンク(20世紀フォックスの社長) の家で会った。
強烈な印象の女性だった。
ディナーの間、マリリンはみとれていた。彼女の年齢になったとき、彼女と 同じくらい、いまの容姿を保っていられればと思った。
スターの中には会ってみるとスターらしくない人や、仕事を離れたほうがず っとスターらしい人がいる。どちらがいいか分からないけれど、ミ ス・クロフォードは明らかに後者のタイプ。スケンクの家のディナーの席で の彼女は、映画の中での法廷で感動的な場面を演じているのと同じくらい映画 スターだった。
クロフォードの魅力にうっとりとしているマリリンに彼女は言った。
「あなたがよろしければ、私、いろいろとあなたの力になってあげられると思 うの。たとえば、いま着てらっしゃるその白いニットのドレス、こういうディ ナーの席にはあんまりふさわしくないと思うのよね」
マリリンのただひとつのお気に入りのドレスだった。大切なところに出かける ときは昼も夜もこれを着て行く。毎日、自分で洗濯しているものだった。
クロフォードはマリリンと教会が同じだったので、彼女を家に招いた。マリリ ンは素直に申し出を受け入れた。マリリンによると、何を着るべきか、何を着 てはいけないか、提案とはほど遠い命令するような口ぶりだった。
1953年5月9日に行われた雑誌『フォトプレー』賞授賞式のことだった。 ひときわボディラインを際立たせるピチピチの文字どおり身体に縫いあわせて あるかのようなゴールドラメのドレス(*)で現れたマリリンにスポットライ トを奪われ、並みいるハリウッドクィーンたちはすっかりかすんでしまった。 (*「紳士は金髪がお好き」の衣装デザイナー、トラヴィアのデザイン、これ 以後、「ジョーン・クロフォードドレス」として知られるようになる)
「スキャンダラス」なドレスは、くねるような動きとあいまって、男たちに充 分なマリリン反応をもたらした。だが、マスコミの非難、攻撃はマリリンの予 期せぬことだった。
反マリリン運動の先頭に立ったのは、ジョーン・クロフォード。インテリ風 をふかせてマリリンに一撃をくらわせた。
「まるでバーレスクのようだったわ。観客は大声ではやし立て、ジェリー・ル イスなんかはテーブルに乗って、口笛を吹くありさま。あさましいったらあり ゃしない。セックスはどんな人間にとっても、すさまじい役を務める。人の興 味をそそり、惑わす。でも、その当惑の表情を目のあたりにするのは好ましい ものではない。女優はレディであることを教えてあげないといけないわ」
こうしたトラブルが起きるたびに、マリリンはラウラ・パースンズのコラム に寄稿している。
「ミス・クロフォードのことはあまりよく知りません。私にとって、やさしさ と理解を示してくださる方だと信じています。まず、最初に思うこ とは槍玉にあげるのに、なぜ私を選んだかということです。彼女は大スター です。私はまだほんのかけだし・・・あまり、考えなくて感情のおもむくまま に行動なさったのかしら。だとしたらとっても悲しいわ」
マリリンとクロフォードの反目は1954年11月まで執拗に続いた。 その月、ロマノフで、マリリンはハリウッドの名士として、ハリウッド中の人 々から歓迎の手を差し伸べられた。クロフォードはリストからはずされた。
だが、クロフォードは1962年のマリリンの死後も映画スターとして重要な 力を握っていた。
彼女はマリリンが生まれたときすでにスターであり、マリリンが死んだときも スターだった。
その年、クロフォードの代表作「何がジェーンに起きたのか?」で当たり役 を演じた。
1977年に心臓発作で亡くなった。
彼女は映画史上に残るスターであった。代表作「雨」(1932)「ウィメン 」(1939)「ミルドレッド・ピアス」(1945年のオスカー受章)「サド ン・フィア(突然の恐怖)」(1952)
クロフォードはレズビアンでマリリンに関係を迫ったが、断られたことから敵 がい心を抱くようになったという説もある。
















