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「ジョー・ディマジオ」
ジョー・デマジオ
M・エンゲルバーグ他著
井上篤夫訳
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前読売巨人軍 長嶋茂雄氏推薦
ディマジオは私に、野球の本当の面白さを教えてくれました。松井よ、ディマジオを目指せ!
---長嶋茂雄 

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  NATASHA LYTESSナターシャ・ライテス

ナターシャ:あなた、すてきよ。愛しているわ。
マリリン:愛してくれなくていい、教えてほしいの。

「彼女(ナターシャ)はすばらしい先生だったけど、私が男の人に会うとヤキ モチを焼くの。私の夫のつもりでいるのよ!」
(マリリン・モンロー)

「私は彼女に歩き方、呼吸の仕方を教えた」
(ナターシャ・ライティス)

 マリリン・モンローはナターシャ・ライテスに初めて会うときに、25分遅刻 した。1948年の4月のことだった。マリリンはコロムビア映画と6ヶ月の契約を 交わしたばかりだった。当時、ナターシャはコロムビアの演技のヘッド・コー チだった。
 コロムビアの人材部長マックス・アーノウと『レディース・オヴ・コーラス』 (1948)のプロデューサー、ハリー・ロムがナターシャにマリリンとの仕事を 依頼した。

 ナターシャとマリリンの固い絆は『七年目の浮気』(1955)の撮影終了まで 7年間続いた。ナターシャは他の誰もマリリンを相手にしなかったとき、真剣に女優として 扱った。
「マリリンには外見以上のものがある。みんなマリリンを見ただけで、典型的 なハリウッドのブロンドだと思ってしまうのが問題なの。それはしかたがない ことだけど。マリリンの内面は肉体には合っていないのよ」

 弟子に寄せるナターシャの信頼は強いものだったので、1950年にマリリンが 『アスファルト・ジャングル』の契約を交わしたとき、それまでの仕事をやめて、 マリリンの演技コーチとなった、
 1951年のあと、『クラッシュ・バイ・ナイト』の撮影が始まると、ナターシャ がいないと仕事をしないと言うようになった。
「毎日のラッシュ(未編集のフィルム)にはマリリンのシーンがたくさんあっ て、セリフ合わせが終わるたびに、マリリンの目は私をさがした。うまくいっ たかしらと私を見るのだった」
(ナターシャ・ライテス)

『ノックは無用』(1952)撮影の準備のために、マリリンはナターシャととも に、ハーバー・アヴェニューのウエスト・ハリウッドの家に引っ越してきた。 関係者たちはマリリンに対するナターシャの影響力を尋ねるようになった。マ リリンはナターシャに車と毛皮のコートを買ってあげた。また、ナターシャを 20世紀フォックスの社員にしてもらった。

 ハリウッドでは、マリリンとナターシャがレズビアンではないかという噂が 広まった。これはニューヨークでのマリリンのメイド、レナ・ペピトーンやコ ラムニストのフローラベル・ムールによる証言もある。

 真偽のほどはともかく、ナターシャはマリリンが男と関係をもつことを快く 思っていなかった。ジョー・ディマジオとの関係は真っ向から反対していたし、 ディマジオのほうもナターシャをよく思っていなかった。
ディマジオとの関係が深まるにつれて、ナターシャとの仲が悪くなっていった のは間違いないだろう。

 1956年、『バス停留所』の撮影でハリウッドに戻ってきたとき、まだ20世紀 フォックスで仕事をしていたナターシャと対決しなければならなくなった。 「もう、あなた必要ないのよ」と言わなければならなかった。
 ニューヨークで、マリリンは新進気鋭の優秀な演技コーチ、ポーラ・ストラ スバーグの存在を知ったからである。

 ナターシャは1964年にがんで亡くなる前に、自伝的な記事『マリリンとの日 々』を書いている。
マリリンがナターシャを利用した(そして無残にも縁を切った)のが事実ならば、 ナターシャもマリリンを利用したということは否めない。マリリンを通じて ナターシャは喝采を浴び、名誉を手にし、経済的な報酬を得たのだ。


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