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EUNICE MURRAY ユーニス・マレー( 1 )
「ユーニスは心理学に関心があり、心の病をもつ人々のために仕事をしたいと
考えていたわ。本を読み、勉強していた。ケアの依頼があると、患者について
の予備知識、主治医の目的となるガイダンスを十分に理解したうえで、指示さ
れた治療の手助けをした。さまざまなタイプの患者の面倒をみてきた」
ローズ・シェイド、ユーニス・マレーについて。
"Marilyn:The Last Months"(1975、ピラミッド社)より
「ドライヴには行かないことになると思うわ、ミセズ・マレー」
MM、ユーニス・マレーに、1962年8月4日
ユーニス・マレー夫人の言動には矛盾が多い。ユーニスは1961年11月
から1962年8月5日までマリリン・モンローの「家政婦」をしていた。当
初は、家政婦本来の務めをするものではなかった。おかかえ運転手、助言者、
インテリアの装飾、公的秘書を任され、そして友だちでもあった。
彼女の著作"Marilyn:The Last Months"(ローズ・シェイドとの共著)で、
MMのもとにくる前、神経を病んでいる患者たちの世話を10年間務めたと述べて
いる。
マリリンが亡くなってからちょうど1週間後、彼女特有のあいまいな表現で、
『ロサンゼルス・ヘラルド・イグザミナー』に次のように語った。
「グリーンスン先生(マリリンの精神科医)から、マリリンのことで、いくつ
か指示を受けていました。でもそのことは申し上げられません」
ユーニスについて知られているのは、結婚前の名前はイレーヌ・ジョーント、
1902年2月2日、シカゴ生まれということ。1948年にメキシカンスタ
イルの持ち家をラルフ・グリーンスン医師に売却した。13年後、グリーンスン
は患者のマリリン・モンローにマレー夫人を友だち、看護師、家政婦として雇
うように勧めた。マレー夫人には奇しくもマリリンという名の成人した娘がい
た。はじめの頃の報酬は週60ドル。だが、仕事にしばられる時間が増えてきた
ので、まもなく週200ドルになった。
1962年2月、ユーニス・マレーの尽力で、マリリンは夢に描いてきた家
をみつけた。ブレントウッドにあるプライベートの地味な平屋の一軒家。その
後の5ヶ月間、この奇妙な組み合わせの女たちは、新居に設える本物のメキシ
コの家具調度品のことで大忙しだった。
1962年8月4日の朝8時に、ユーニスはブレントウッドのマリリンの家
にやってきた。その晩は、グリーンスン医師の要請で、その家にとどまること
になった。それ以後のことは、何年にも渡り、たびたび、さまざまな形で語ら
れてきているので、どれを信じてよいのかむずかしい。
最初の、「さらに第2回目の」警察の発表によると、真夜中にマリリンの部屋
に明かりがついているので、マレー夫人は不審に思った。その後、午前3時3
0分に、まだ明かりがついていた。そこで、マレー夫人は外に回って、寝室の
窓から見たところ、マリリンの体はベッドの上に「不自然な」かたちで横たわっ
ていた。マレー夫人はグリーンスン医師に電話をかけた。グリーンスンはすぐ
さまやってきた。
ところが、現場に最初にやってきた警察官のジャック・クレモンズによると、
マレー夫人のはじめの証言ではマリリンの死体を発見したのは真夜中すぎで、
グリーンスン医師とエンゲルバーグ医師(マリリンの内科医)は深夜12時3
0分からブレントウッドの家にいたというのだ! このことは、警察への通報
が4時25分であったという事実と考え合わせると、さらに興味深い。
何年もたってから、マレー夫人はボブ・スラッツアーにきっぱりとこう言っ
ている。
マリリンの死体を発見したのは真夜中ごろ、つまり、マリリンが亡くなったの
は8月4日の深夜で8月5日の未明ではない。そして、これがマリリンが死亡
した日と考えられているのだ。さらに、状況を不可解なものとしているのは、
前出の警察官ジャック・クレモンズによると、4時40分に現場に到着したと
き、マレー夫人は洗濯をし、冷蔵庫を掃除して中のものを取り出していたとい
うのだ。
翌日の6日、サンタモニカの彼女のアパートで記者会見に臨んだ。4日の夜、
マリリンにわけのわからない不穏な電話がかかってきたのだと言った。
そして、「・・・・この何週間、マリリンがしてきたことはすべてが生きてい
くためのことだった。私たちはすてきな計画をあれこれと考えていた」とも言っ
た。
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