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PAULA STRASBERG
「ポーラには思い知らせてやるつもりだ。この映画を牛耳っている」
ジョン・ヒューストン監督
『荒馬と女』でのポーラについて
「私は『荒馬と女』のひとコマひとコマに携わってきたわ。私の仕事ぶりはス
クリーンに表われている」
ポーラ・ストラスバーグ
リー・ストラスバーグの妻、ポーラ・ストラスバーグはアクターズ・スタジ
オのコーチであり、『バス停留所』(1956)以降のMMの指導にあたってきた。
ストラスバーグ夫人はマリリンの監督たちにとっては目の上のタンコブだった。
それまでのMMのコーチ、ナターシャ・ライテスの役目を奪い、追い出してし
まった。
1911年生まれのポーラ・ミラーがマリリン・モンローに初めて会ったのは
1954年、ロサンゼルスにある20世紀フォックスの撮影所だった。ポーラをMM
に紹介したのはコラムニストのシドニー・スコルスキー。これが運命的な出会
いとなる。当時マリリンは『ショーほど素敵な商売はない』の撮影中で、いつ
かはアクターズ・スタジオで勉強したいということをポーラに伝えた。1年も
たたないうちにそれは実現した。
ポーラ・ストラスバーグはマリリンの映画仲間からは煙たがられていた。
『王子と踊り子』(1957)のローレンス・オリビエ監督はポーラをセットから
締め出してニューヨークに追い返してしまった。他の仲間たちはポーラのこと
を「黒衣の魔女」とか「黒いマッシュルーム」とか呼んでいた。黒のワードロ
ーブしか着ていなかったからだった。
マリリンとの仕事で、ポーラは1960年の相場としては破格の週給3000ドルを
手にしていた。その上、MMの死後、その遺産の中から22万2千ドルを法的に
要求していた。
リー・ストラスバーグがMMの遺産の第一受取人であるのにもかかわらず、
ポーラがそのMMの遺志に言及していないのは興味深いことだ。亡くなる少し
前、マリリンがポーラを解雇していたという事実があったとも言われている。
だが、これは実証されてはいない。ポーラは1966年に亡くなったが、この件に
関しては口を閉ざしたままだった。
SUSAN STRASBERG
1938年、スーザン・ストラスバーグはリー・ポーラの夫妻に間に生まれ、女
優となった。両親をとおして、スーザンはマリイrン・モンローと親しくなった。
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