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三浦環(オペラ歌手)
1884 明治17年.2.22−−1946 昭和21年 .5.26

プリマドンナ a prima donna


 日本を代表する歴代オペラ歌手を一人あげ るとすれば、男性では藤原義江、女性では三 浦環(たまき)である。
 その環はなんでこんなにいい声が出るのと 言われて「タマゴを何個も食べているから。 タマゴはうがい薬にもなるし」と答えた。
 作家岡本かの子と双子のような容貌。真っ 赤な衣装で、「ちんちくりんのでぶ」。そう 形容される女性が世界的な舞台に立って、プ ッチ−ニの『蝶々夫人』に、二千回も出演し た、日本が世界に誇るプリマドンナ、それが 三浦環である。
 三浦環(旧姓柴田)は、一八八四年(明治 十七年)二月、東京で生まれた。両親は芸ご とが好きで、三歳のときから環に日本舞踊な どを習わせた。小学校を終えると、東京女学 館に入学。そこで音楽教師が、環の才能を認 める。声楽を本格的に学ぶことを勧めた。
 早く嫁に行ってほしいという父の猛反対を 押し切って、東京音楽学校に入学する。環の 才女ぶりは在学中から発揮された。赤い自転 車でさっそうと通う彼女は「自転車小町(美 人)」と呼ばれた。
 悪戯して、通せんぼをしたりする男子学生 たちのリ−ダ−格が、山田耕作(のちに『か らたちの花』『この道』などで知られる作曲 家)だった。環のピアノの先生滝簾太郎は「 一緒に帰ろう」と誘ったが、「私は自転車で すから」と断った。
 一九〇三年(明治三十六年)七月に、日本 初のオペラ公演として、グルックの『オルフ ォイス』の主役を演じた。本科二年、十九歳 のときである。
 環はオペラに夢中になり、ひたすら勉強を 続けた。だが、しびれをきらした父孟甫は、 娘が本科を卒業したら、すぐにでも結婚させ るつもりでいた。孟甫は音楽を続ける条件と して、藤井善一という軍医との結婚を強く迫 った。一九〇四年(明治三十七年)、二十歳 のときに結婚。環はまもなく母校の助教授に なり、月給十二円(当時の千円は現在の五百 万円から換算して約六万円に当たる)を支給 されることになった。
 一九〇七年(明治四十年)、夫の善一は仙 台の部隊に転任することになる。
「ぜひ一緒に行ってくれ」
 環は何日も悩んだが、自分の考えをはっき りと述べた。
「一人の男にかしずくことなら、女であれば 誰にでもできます。でも、音楽を生命として 生きるいまの私にはできそうもありません。 一人の日本人として、日本の芸術文化発展の 向上にすこしでもお役に立つことができれば と思うのです。どうか私のわがままを許して ください」
 環は一気にそう言って頭を下げた。
 善一は青ざめていたが、やがてこう言った のだった。
「そこまで音楽に打ちこんでいるとは知らな かった。好きな音楽に精を出し、立派な音楽 家になってほしい」
 激しい口調ではねのけられると思っていた 環は、夫のその言葉に泣き崩れた。
 善一との離婚が世間に知られて、マスコミ は環を非難した。
「尊い帝国軍人の妻の座を捨てて、音楽にう つつを抜かす悪女」
「恥知らずの女」
 離婚後のスキャンダル騒ぎが収まると、一 人の男性が現れた。柴田家の遠縁で、環も幼 いころから知っている三浦政太郎という東京 帝国大学医学部の助手をつとめている青年で ある。
「私は芸術家に理解のある人間になりたい」  政太郎の毅然とした態度に、環は結婚を決 意した。
 一九一〇年(明治四十三年)、二人だけの ささやかな結婚式を挙げた。
 その翌年の三月一日に、東京丸の内に帝国 劇場が開幕した。環は専属のプリマドンナと して迎えられた。
 十月には、最初の帝劇公演として舞踊劇『 胡蝶の舞』に、十二月にはマスカ−ニのオペ ラ『カヴァレリア・ルスティカ−ナ』に出演 した。
 一九一四年(大正三年)、念願のヨ−ロッ パ留学が実現した。五月十日、横浜港から環 と政太郎は憧れのドイツに旅立った。
 ところが、第一次世界大戦が起こったため 、ドイツではなくイギリスで勉強した。これ も運命的なことだった。
 そこで、ヘンリ−・ウッドのオ−ディショ ンを受けて合格する。一九一五年(大正四年 )の春、イタリアのマルコ−ニ侯爵夫人とウ ラディミ−ル・ロ−ジンというロシアの名テ ノ−ルの訪問を受けた。ロンドンのロイヤル ・オペラ・ハウスでプッチ−ニの歌劇『マダ ム・バタフライ』で、主役の蝶々さんを演じ てほしいというものだった。
 環はそれまで『マダム・バタフライ』を舞 台で歌ったこともなければ、きちんと勉強し たこともない。
「でも、ぜひ、やらせてください」
 二人は帰ると、すぐに楽器店に走って、『 蝶々夫人』の楽譜を買った。リゴルディ版の イタリア語で三六二ペ−ジもある。公演まで 二カ月、一日十ペ−ジずつ暗譜した。五月三 十一日、幕が上がった。
 イギリス中の新聞が絶賛し、連日大好評で 公演は十五日間延長されることになった。  一九一八年(大正七年)、ニュ−ヨ−クの メトロポリタン歌劇場で、世界的な名テナ− であるエンリコ・カル−ソ−と『蝶々夫人』 を長期上演する。ニュ−ヨ−クのマディソン ・スクエアガ−デンでは、第一次大戦の祝勝 会で歌を披露した。
 一九二〇年には、イタリアのテアトロ・コ ンスタンチをはじめとして、各国各地で『蝶 々夫人』を公演して好評を博した。その年、 環はプッチ−ニから招待を受けてロ−マ郊外 トレ湖の畔にある山荘を訪れた。
「あなたは歌も演技もじつにみごとだ。悲劇 的な蝶々さんを、あなたほど歌い演じる歌手 はいない」
 この偉大な作曲家は言った。
 環はアメリカを拠点にして、世界各地を演 奏旅行した。一九三五年(大正十年)、イタ リア、パレルモで『蝶々夫人』二千回公演を 打ち上げて帰国することになった。
 翌年、東京歌舞伎座で『蝶々夫人』二千一 回目の日本初公演が、日比谷野外音楽堂で行 われた。そして三月二十一日に、シュ−ベル ト『美しき水車小屋の娘』独唱会が開かれた 。日比谷公園の桜はまだ三分咲き。
 環は痩せ細って弱々しい。かつての彼女を 知るものは痛々しいと感じた。一曲歌うごと に、医師と看護婦が体調を調べた。彼女のか らだは栄養失調と腹部の腫瘍のためにいちじ るしく衰弱していた。
 が、環は、少しの乱れもなく、完璧に歌っ た。拍手は鳴りやまなかった。
 その後、環は入院したが、見舞った音楽プ ロデュサ−の高橋厳夫に愛と恋についての話 をして聞かせた。NHKでオペラ・アリアや 歌曲など、最後の録音が行われた。
 見舞いにきた友人のチャップマン牧師が環 に聞いた。
「あなた幸福でしたか?」
「はい、とても幸せでした。いつでも天国へ 参ります」
 そう英語ではっきりと答えた。
 五月二十六日、容体が急変して環は息を引 きとった。
 死を迎える二週間前のこと、たまたまベッ ドの回りに誰もいなかったので、環はオペラ 『オルフォイス』のユリディスのアリアを、 歌い、病棟中に響いた。それは透き通った天 使の声に似ていた。
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