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ココ・シャネル(ファッション・デザイナ−)
Coco Chanel
1883.8.19−1971.1.10

non ノン

「流行が変わっても、スタイルは残るのよ」  八十七年のココ・シャネルの生涯を貫いた 信念だった。
 シャネルは、からだをきつく締めあげる服 から女性を解放したことで、多くの女性から 支持された。
 ココ・シャネルの頭文字を組み合わせたブ ランド・ロゴは多くの人びとを引きつけてい る。
「シャネルをもつと、誰もが何かを見つけら れる」(モデル、クラウディア・シファ−)
「今世紀からフランスは三人の名前を忘れな いだろう。ゴ・ダ−ル、ピカソ、そしてシャ ネル」(フランスの文部大臣、作家のアンド レ・マルロ−)
「私が成功した秘密? ガムシャラに働いた から。働けばよけいに働きたくなる」
「男と女が愛しあうには対等でなくっちゃ。 私の嫌いなのは所有されること」
「受け取るよりは与えるほうが、はるかに嬉 しいものね。それは仕事にかぎらず、恋愛で もそう」
「よくできた服とは誰にでもよくあう服のこ とを言うのよ」
 ガブリエル・シャネルは一八八三年八月二 十日にフランスのオーベルニュ地方に生まれ た。もっとも、シャネル自身は十九日と言っ ている。香水の「シャネルの十九番」はこの 数字から取った。
 父は家庭を家庭を省みず、心労が重なった 母は三十三歳という若さで亡くなった。シャ ネルは孤児院に入れられるが、他人から同情 されるのを拒み続けた。
 孤独に弱いが、けっして人と妥協すること を許さない性格は複雑な少女時代に形成され た。少女はいつも拒み続けた。答えはいつも ”ノン”。このノンはひたすら愛されたいと いう欲求の表れでもあったが、言い寄る男た ちにも答えはきまってノン。
「そう、あたしはかわい気がなくて、とって も傲慢だったわ。頭を下げたり、ペコペコし たりするのは大嫌い。一人で生き、世の中の 不平等さと闘ってきた」
 本名ガブリエルがココになったのには訳が ある。コーラスガールになる夢をもっていた ころのこと。彼女はム−ランで『トロカデロ でココを見たのは誰?』を好んで歌った。
 私の大好きなココ/トロカデロでいなくな ったの/こんな悲しいことはないわ/男運の 悪い私に/優しかったココ/ココを見かけな かった?
 ココは迷い犬のこと。シャネルはいつしか ココと呼ばれるようになった。
 寄宿舎学校を卒業すると、同い年の叔母ア ドリエンヌと衣料品店の売り子として働き始 める。
 ある日、シャネルは最初の恋人、エティエ ンヌ・バルサンと競馬場に行った。そこで、 美しい瞳のイギリス人に会った。この男、ボ イ・カペルに、恋をしてしまった。  まだ、充分に相手のことなど知らなかった のに、二人はこんな会話をかわした。 「いつ、パリに発つの?」とシャネルが聞い た。
「明日」とカペルは答えた。
 翌日、スーツケース一つをもってシャネル はカペルとパリ行きの列車に飛び乗った。
 一九一〇年、パリのカンボン通り二一番地 に小さな帽子店”シャネル・ココ”を開いた のは、二十六歳のときである。カペルの援助 で、洋品店を開くのはそれから二年後。二人 はパリ郊外にあるカペルの豪壮な別荘で同棲 を始めた。シャネルの評判を聞きつけて、多 くの客が集まった。
 一九一四年、第一次世界大戦が勃発する。 翌年、三十三歳のシャネルはパリで正式にオ ートクチュールの店を開いた。
 翌年、シャネルはカペルのプロポ−ズを受 けたのだが、拒絶するのだ。傷心のカペルは イギリスに帰り、貴族の娘と結婚した(のち にカペルは自動車事故で死亡)。
 シャネルは社交界の華になり、名声が上が るにつれて多くの男たちが彼女に求愛し続け た。だが、「生涯愛した男はカペルともう一 人だけ」とシャネルは言う。
 シャネルが愛したもう一人の男は、彼女が 四十歳のときに出会ったウェストミンスター 公爵である。
「本当に愛したのは、この二人だけ。いまで も彼らはどこにいようとも、天国でも私のこ とを思い出してくれていると信じています。 苦労させられた女のことは忘れられないでし ょうからね」
 シャネルは一人で生きる道を貫いた。
「女の私のほうが強いのに、その女と暮らす のは男にとって難しいことでしょうね」
 しかし、多くの男たちがシャネルの周囲に 集まった。当時のパリでは、シャネルを中心 にピカソやジャン・コクトー、作曲家のスト ラヴィンスキーなど芸術家たちが集まってサ ロンを作っていた。
「私はジャ−ジで女性のからだを開放した」
 シャネルは男物の生地とデザインを取り入 れたシャネル・スーツを発表した。モデルが ポケットに手を入れたままさっそうと歩く姿 は衝撃を与えた。
「黒はすべての色にまさると私は思う。白も 同じだけれど、モードはそのときによって変 わるもの、つねにね」
 ファッション・デザイナ−としてのシャネ ルは六十五年のあいだ、一度もグリ−ンを用 いなかった。
 シャネルには盗作されることをむしろ歓迎 する節があった。だからまた新しいものを作 るというのが彼女の哲学だ。
「憎しみと意地悪の権化みたいにいわれてき たけど、一所懸命にやっていればそうなるだ け、気にしない、気にしない」
 一九三九年、第二次世界大戦勃発を期に「 ひとつの時代が終わったから」と巨万の富と ともに五十六歳で引退をする。
 戦後とともに、ディオール、ピエール・バ ルマン、ジバンシーなどパリ・ファッション 界に多くのデザイナーが活躍を始めた。 「あまりにもひどいファッション界に我慢が ならなかった」
 シャネルの心にはまた、”ノン”の気持ち が湧きあがってきた。
 一九五四年、ココ・シャネルは七十一歳で カムバックする。だが、パリ・コレクション の初日、パリのマスコミは無視した。戦時中 のナチス・ドイツとの関係を疑われていたこ とがまだ影を引いていた。
「ネイビ−・ブル−のス−ツ、白いブラウス にボウタイ。椿のコサ−ジュ。一見、年配の 教師のような印象を受けるが、私は一番洒落 ていると思った」(シャネルの主任デザイ− ナ−、カ−ル・ラガ−フェルド)
 簡素で機能的なシャネルのモード哲学を理 解できなかったのだ。
 しかし、アメリカのマスコミがシャネルを 熱狂的に歓迎して、彼女はふたたび女王の座 に返り咲くのである。
 シャネルは同じ世紀に、二度もファッショ ン界を制した。
 イングリッド・バ−グマン、ジャンヌ・モ ロ−、ロミ−・シュナイダ−、ブリジッド・ バルド−、ロ−レン・バコ−ルなど多くの女 優たちがシャネルを愛用した。
 ジャクリ−ヌ・ケネディは、運命のダラス の日(一九六三年十一月二十二日)ショッキ ング・ピンクのシャネル・ス−ツを着ていた のだ。
 そしてこれまでと同じように、シャネルは パリのヴァンドーム広場にある最高級ホテル 、リッツに一人住んで働いた。
「生きているかぎり働き続けようと思うわ。 老人ホ−ムなんて退屈するところはないでし ょう。もし、天国に行ったら、そこでも天使 たちのために本当にいい洋服を作ろうと思っ ている」
 ファッション界の女王は一九七一年一月十 日、八十七歳でその生涯を閉じる。
 たしかなのは、彼女が人生を強烈に生きた という事実である。
「日曜日は嫌い。誰も働かないから」
 大嫌いな日曜日に、たった一人で彼女は逝 った。
「私が着たいものを作って着たら、時代があ とからついてきた」
「人が歩んだ一生はそれほど多くのことを満 たしてはいないが、夢見た人生は果てしない ものだ。死後も生き続ける」
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