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オ−ドリ−・ヘプバ−ン(女優)
Audrey Hepburn
1929.5.4--1993.1.20

抵抗 resistance


「私は自分のことを魅力的と思ったことは一 度もない。エヴァ・ガ−ドナ−やエリザベス ・テイラ−はすてき。でも、私はあの人たちとは違う、まるっきり」
 オ−ドリ−・ヘプバ−ン(本名 エダ・キ ャスリ−ン・ヘプバ−ン・ファン・へ−ムス トラ)は、一九二九年にベルギ−のブリュッ セルで生まれた(同じ年に、アンネ・フラン クが生まれている)。父ジェ−ムズ・A・ヘ プバ−ン・ラストンはアイルランド系イギリ ス人で、貿易商を営んでいた。母のエラはヴ ァン・ヒ−ムストラ男爵家出身である。
 ヘプバ−ンは五歳でイギリスに渡り、六歳 でロンドン郊外にある私立寄宿舎学校に入学 する。十歳までこの学校にいたが、第二次世 界大戦が勃発し、両親が離婚したため、母の 故国オランダへ行くことになった。 ヘプバ−ンは、少女の身ながら、反ナチ抵 抗派の街頭レポなどをつとめた。男爵家の財 産は、ナチスに没収されて、苦しい生活を強 いられた。少女の唯一の慰めは、バレエ教室 に通ってレッスンを受けることだった。
「バレリ−ナになることが、私のたったひと つの夢でした」
 十五歳で終戦を迎えてからは、モデルで生 計を立てながら、アムステルダムでバレリ− ナになるための修業を続けた。
 一九四九年、二十歳のとき、ヘプバ−ンは 一人で、ロンドン行きの船に乗りこんだ。
 母は苦しい生活のなかで、娘の夢をかなえ させようと、雑役婦をしながら働いた。娘も 夢を実現させるために、写真のモデルやナイ トクラブのダンサ−などをしながら、マリ− ・ランバ−ト女史のバレエ学校で研鑽を積ん だ。
 ヘプバ−ンは百七十センチと背が高く、( トウ・シュ−ズをはき、爪先で立てば、二十 センチは高くなるので)プリマになるには条 件が厳しすぎた。バレエの夢は断念せざるを えなくなった。
 だが、ヘプバ−ンは挫折しなかった。
「バレエがだめなら、ミュ−ジカルがある」
 彼女はオ−ディションを受けて、ミュ−ジ
カルの端役の地位を得た。
 一九五〇年マリオ・ザンピ監督に起用され てイギリス映画に端役で顔を出した。
 六本目の『われらモンテ・カルロより』を モナコで撮っていたときのことである。彼女 はロケ現場のホテル・ド・パリのロビ−を純 白の花嫁姿で駆け抜けた。
「見て、私のジジが走っているわ」
 その場にいあわせたフランスの人気作家コ レット女史はそう叫んだ。自作の『ジジ』を ブロ−ドウェイで上演する主役のジジ役が決 まっていなかったのだ。
「この娘こそジジよ」
 コレット女史の一言で、ヘプバ−ンはミュ −ジカルの大役を射止めた。 この公演を見たウィリアム・ワイラ−監督 は、公演終了の八カ月後まで待ち続けて『ロ −マの休日』(五三年)に彼女を抜擢した。 結果は大成功。そのときヘプバ−ンは二十三 歳。
 彼女にはナイトクラブの踊り子をしていた ときに知り合ったジェ−ムズ・ハンスンとい う婚約者がいた。
「きみのことはアメリカから戻るまで待って いるよ」
 ブロ−ドウェイに発つ日、そう言って恋人 は送りだしてくれた。その彼との約束を果た すかどうかの決断をせまられていた。
「女優ではなくて、オ−ドリ−という一人の 女性を愛しているんだ」
 仕事を捨てて、家庭に入ることを強く望ん だジェ−ムスの希望を彼女は受け入れること ができなった。婚約は破棄された。
 一九五三年度のアカデミ−主演女優賞を『 ロ−マの休日』で受け、五四年の「明日のス タ−」第一位に選ばれた。これは女優には美 しさだけではなく、強烈な個性が求められる 時代の幕開けでもあった。当時にオ−ドリ− ・ペプバ−ン時代の到来でもあった。
『麗しのサブリナ』(五四年)『昼下りの情 事』(五七年)で、ヘプバ−ンを起用したビ リ−・ワイルダ−監督が「この女性は、たっ た一人で、おっぱいを過去の遺物にしてしま うかもれない」と言った。
 ソフィア・ロ−レン、ジ−ナ・ロロブリジ −タなどに代表されるグラマ−な女優とはま ったく違う魅力を見せてくれた。
 一九五七年のアステアと組んだ『パリの恋人』の原題は「ファニ−・フェイス」だが、 これはヘプバ−ンの愛嬌ある顔だちを表す言 葉にもなった。
 その後、ヘプバ−ンは『昼下りの情事』六 〇年の『許されざるもの』、六七年の『暗く なるまで待って』、六八年『おしゃれ泥棒』 などで数多くのファンを掴んだ。
 一九六四年、『マイ・フェア・レディ』の イライザ役を製作者のジャック・L・ワ−ナ −は舞台で大成功したジュリ−・アンドリュ −スではなくてオ−ドリ−に当てた。これは ヘプバ−ンが大スタ−であることの証明だっ た。出演料は百万ドルで、当時アメリカで最 高のスタ−、エリザベス・テイラ−と同じ金 額である。
 ヘプバ−ンには、骨の折れるような習慣が あった。いつも自分の所有物に囲まれている のが好きだった。旅行に出るときは、いつで も二十ほどのトランクやバスケットをもって いった。ホテルのスイ−ト・ル−ムやロケ地 に着くと、慎重に荷物をほどき、中身(絵画 や花瓶など)をわが家のように飾り立てるの だ。出発するときには、梱包して(自分で) 次の目的地まで送るのだ。そこで、また荷を 解き、そして荷造りの繰り返し。
 ヘプバ−ンはスキャンダル、ゴシップの類 の少ないことで知られ、ブロ−ドウェイの舞 台『オンディ−ヌ』での共演が縁で結婚した メル・ファ−ラ−との結婚生活は揺るぎない ものと思われていた。
 ところが、結婚十三年目、息子のショ−ン が七歳になった六八年一月に離婚した。夫メ ルのカトリ−ヌ・ドヌ−ヴやマリソルなどと の女性関係が原因とされる。
「私は離婚などけっして望んでいなかった。 自分の身にふりかかってきたいま、私はその 言葉が憎い」
 離婚後のヘプバ−ンのやつれようは、誰の 目にも痛ましかった。だが、彼女は立ち直る のも早かった。>
 いままでのように、大口をあけて笑い、よ く食べた。
 その後、六七年に『いつも二人で』で共演 したアルバ−ト・フィニ−やジヴァンシ−と の再婚が噂されたが、立ち消えになった。
 地中海ヨット旅行で知り合ったイタリア人 の精神医アンドレア・ドッティと一九六九年 一月十八日に結婚した。翌年二月には息子の ルカが生まれている。
 晩年のヘプバ−ンは、ユニセフを中心とし てアフリカの貧しい人びとの救済につくした 。これは五歳から九歳までナチスの恐怖に怯 えながら生きてきた少女時代の記憶と無関係 ではない。少女は窮乏生活で、喘息、黄疸、 貧血症、水腫などにかかっていた。
 UNRRA(アンラ。ユニセフの前身。国 連救済復興機関)から、食糧が届いたときの ことをヘプバ−ンは忘れない。「学校にアンラの救済物質の木箱が山のよう に運びこまれた。小麦粉、バタ−、オ−トミ −ル、毛布、医薬品、衣類などを覚えていま す」
 ヘプバ−ンのユニセフへのコミットメント はこのころから始まっている。
 ドッティと離婚した最晩年のヘプバ−ンを 支えたのは、十年来の恋人で俳優のロバ−ト ・ウォルダ−ス(愛称ロブ)である。
 ヘプバ−ンは一九六五年に、スイスのレマ ン湖が見える”ラ・ペジ−ブル(静かな場所 )”に山荘をかまえた。
「スイスを選んだのは、ここが絶対に戦争が ない国だから」(息子のショ−ン)
 十八世紀の古びた美しい農家を改造した邸 宅でヘプバ−ンは最期のときを迎えた。 ヘプバ−ンはロブとの関係について、「結 婚とは形ではではなくて、本当ににお互いを 支えあえるかどうかです」と語っている。
 その意味では、二人は強い絆で結ばれてい た。 スクリ−ンの妖精、ヘプバ−ンは二度の離婚、四度の流産を体験するなど波瀾にとんだ 六十三年の生涯の幕を静かに下ろした。
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