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シルヴィア・ビーチ(出版者)
Sylvia Beach

1887...--1962.10.6

頑固 stubborn


 二十世紀の最高傑作、ジェ−ムス・ジョイ スの『ユニシ−ズ』は、シルヴィア・ビ−チ の存在なくしてはありえなかった。
 シルヴィア・ビーチは一八八七年、メリー ランドのボルティモアで生まれた。父シルベ スター・ウッドブリッジ・ビーチは、プリン ストンの長老派教会の主任牧師を長年つとめ た。シルヴィアは、三人姉妹の次女だった。 彼女は父の赴任先であるプリンストンの、ラ イブラリ−広場に住んでいたことがある。 「ライブラリ−(図書館)という名前が気に 入っていて、書店を開きたいと夢見たことが あります」
 シルヴィア・ビ−チは二十世紀初頭に、家 族と初めてパリを訪問して、その後、何回も 訪ねるようになった。
 ビ−チは、いつのころからか、書店を開き たいと思うようになった。当初は、パリで知 り合った書店主モリエとニュ−ヨ−ク支店を 開く計画を立てていたが、資金不足で断念し た。
 パリなら、安あがりになるだろうと母の援 助もあって計画を変更した。オデオン通りの 角を曲がった、デュビュイトラン通りに貸し 店舗を見つけることができた。パリでアメリ カ人としては初めて英・米本の販売と貸本を 営む書店を開いたのである。
 一九一九年十一月十九日、シェイクスピア ・アンド・カンパニ−書店を開店した。窓に はシェイクスピアの作品をはじめ、チョ−サ −、T・S・エリオット、ジョイスなどの作 品を展示した。来店第一号は、詩人のルイ・ アラゴンだった。
 幼いころのぼんやりとした夢が、好きな作 家の作品を多くの人たちに紹介したいという 具体的な形となって実現したのである。
 一九二一年、オデオン通り十二番地に引っ 越した。そこはやがて、国を離れて享楽的な 生活を送っている多くの作家たちの溜まり場 になった。スコット・フィッツジェラルド、 エズラ・パウンド、シャ−ウッド・アンダー ソン、ガートルード・スタインなど俊英たち が集ってきた。
 当時のビ−チの店は、本を売るよりは、貸 し出すことが多かった。この書店は彼らにと って、郵便局であり、銀行であり、文学サロ ンであった。彼女はじつによく面倒を見た。
 ビ−チは「おふくろさん」と呼ばれていた 。
 当時の彼女にもっともふさわしい呼び名だ った。
 そのうちの一人であるヘミングウェイは『 移動祝祭日』のなかで「こんなによくしてく れる人を他に知らない」と語っている。
 ヘミングウェイは毎朝、この書店にやって きて本を読みふけっていた。
「最良のお客さまの一人でした」
 とビ−チは言う。
 多くの作家たちのなかでもジョイスは別格 だった。
 一九二〇年夏、ビ−チが書店を開店してち ょうど一年目のときに、詩人のアンドレ・ス ピ−ルの家で催されるパ−ティに出かけた。 そこで、スピ−ルから「ジェ−ムズ・ジョイ スが来ていますよ」と知らされた。
 崇拝している作家がいると教えられたビ− チは身震いした。パ−ティで一人だけアルコ −ルをいっさい口にしない客がいた。彼は天 井まで書物がぎっしり並べられている小さな 部屋の本箱の片隅にうずくまって本を読んで いた。
 ビ−チが静かに声をかけた。
「失礼ですが、あなたはジェ−ムズ・ジョイ ス先生ですか?」
 青白い青年は、小さな声で答えた。
「そうです」
 そして二人は握手をしたが、そのときの様 子はこんなふうだった。
「私の小さいけれども、がっしりした手の上 に、ジョイスの華奢な手がのりました」
 翌日、ジョイスはオデオン通りにあるシェ イクスピア・アンド・カンパニ−書店にやっ て来た。以来、ほとんど毎日通ってくるよう になった。
 他のみんなはシルヴィアと呼んでいたが、 ジョイスだけは何年たっても「ミス・ビーチ 」と呼び続けた。ビーチのほうでは「ミスタ ー・ジョイス」と言ってはいたが、こっそり と「憂い顔のキリスト」と呼ぶこともあった らしい。
 二人の間に恋愛関係はなかったが、それ以 上に二人の関係は親密だった。彼らを切って も切れない関係にしたのは、一九一八年から 始まったアメリカでの、『ユリシーズ』の雑 誌掲載が猥褻のかどで告発され、有罪を宣せ られてからだった。
 一九一四年から『ユリシーズ』を書き続け てきたジョイスは「もうこれで私の本が出版 されることはないだろう」とビ−チに語った 。それからビーチは十一カ月もの間、ジョイ スを助けて未完成の原稿の整理をした。病気 のため、なかなか進まないジョイスを励まし 続けたのである。
 ジョイスは『ユリシーズ』の印刷が最終段 階に入っても、大幅に加筆訂正をしたので、 出来上がった作品は、校正刷りの何倍にも膨 れあがってしまった。ビーチはこの大作の校 正をし、その間に初版千部の注文を取った。 猥褻問題による出版差し止めを避けるために 、ビーチは印刷を英語の読めない印刷屋に頼 んだりもした。
 そのかいがあって、ついに、一九二二年に 『ユリシ−ズ』が出版された。本の売れゆき は好調だった。税関を通すために、ビーチは 偽の表紙に『シェイクスピア全作品集』とか 『子どものための楽しいお話』といった題を つけた。とくにアメリカ人旅行者に人気があ った。
 ヘミングウェイもビーチが本をカナダから アメリカヘ密輸できる手伝いをした。
 ビーチは、「私はただジェームズ・ジョイ スを尊敬していただけなんです」と語ってい る。『ユリシーズ』は十一回にわたって増刷 されたが、ジョイスとは一回も出版契約を結 ばなかった。そのため、一九三三年に連邦最 高裁判所が『ユリシーズ』猥褻にあらずとの 決定を下したとき、彼女は金銭的な利益を含 めてなんら恩恵を得ていない。ジョイスが『 ユリシーズ』をアメリカの出版社に権利を売 ったときも、出版契約にビ−チへの印税を条 件に加えなかった。
「ジョイスのために働くことこそが喜びなの で、利益などいりません」とビーチは語って いるが、実際はそれでかなり傷ついて、二人 の関係にひびが入った。
 ジョイスは金持ちになったが、ビーチは破 産寸前だった。友人の作家たちが一九三〇年 代に次々にパリを去っていったことも彼女に とっては大きな痛手だった。
 一九三六年に、ビーチはフランスのレジン ドヌール勲章を受けたが、その年、ヘミング ウェイやT・Sエリオットなどを含めた何人 かの友人がシェイクスピア書店のために慈善 朗読会を開いた。
 一九四一年、パリを占拠していたドイツの 高級将校がビ−チの店にやってきて、窓に飾 ってあるジョイスの『フィネガンズ・ウェイ ク』を眺めていた。
「この本を買いたい」
「申し訳ありません。これは売り物ではあり せん」
「なぜ売れないんだ?」
「私のものなのです」
 将校はもし売らないのなら、すべての本を 押収すると脅した。ビーチは何人かの友だち と急いで店にあったすべての書籍、写真、記 録などを自分のアパートに運びこんだ。
 ビーチはドイツ占領下のパリで七カ月間刑 務所に入りを強いられた。
 戦後は、一九二〇年代のパリの文学生活に ついて講演したり、インタビューを受けたり して暮らした。一九六二年六月、ビーチはジ ョイス記念館の開設準備に没頭した(ジョイ スは一九四一年に死去)。
 十月六日土曜日、ビーチはかつてのシェイ クスピア書店の二階にある自宅で亡くなって いるのが発見された。死後一、二日たってお り、死因は心臓発作だといわれる。
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