マレ−ネ・ディ−トリッヒ(女優)
Marlene Dietrich
1901.12.27−−1992.5.6
信念 faith
「女はすぐに男を変えようとする。そして変
わってしまった男を愛することができない」
「男たちはいつでも入れたがる、そのことだ
け」
大女優マレ−ネ・ディ−トリッヒは信念の
人だった。彼女は多くの男たちを愛したが、
生涯、自分を見失うことはなかった。
一九〇一年(一九〇〇年、二年、四年の説
もある)ベルリンの生まれ。本名はマリア・
マグダレ−ネ・ディ−トリッヒ。父は王立プ
ロシア警察の将校。
一九二二年にドイツ演劇学校に入学。何本
かの映画に出演して、ベルリンでスタ−にな
ったころスタンバ−グと出会った。
ウィ−ン生まれのユダヤ人監督スタンバ−
グの作品(『嘆きの天使』など)に多く出演
して、ロマンス説も流れたが、「彼の才能を
信じていたからよ」と否定した。しかし、デ
ィ−トリッヒに去られたスタンバ−グは才能
が枯渇してゆく。
また、ルドルフ・ジ−バ−と結婚生活を送
ったが、結婚について、こう語っている。
「聡明な女性さえも、私はあなたのために人
生の最良の歳月を失ったと思えるときがくる
ものよ」
ディ−トリッヒにとって、結婚とはそうい
うもので、友情のほうが大切だった。
戦争中、アメリカに亡命したフランスの名優
ジャン・ギャバンが亡くなったときに彼女
は、「私は二度未亡人になった」と語ってい
る。ギャバンとはずっと同棲していた。隣に
住んでいたグレタ・ガルボが好奇心にかられ
て、二人の寝室をのぞいていたというエピソ
−ドがある。
一九三七年、フランス豪華船イル・ド・フ
ランス号の特別レストランで、ディートリッ
ヒが縁起の悪い十三番目の席に座らせられそ
うになったとき、とっさに十四番の席を空け
てくれた男がいた。
「どうぞこのお席に、マダム」
「メルシー、有り難う」
男は作家ヘミングウェイ、スペイン戦線か
らパリ経由でアメリカに帰る途中だった。
ヘミングウェイは、個性的な顔立ち、みご
とな脚線美のディートリッヒに魅了されてし
まった。
「会った瞬間から好きになってしまった」
とヘミングウェイはのちに語っているが、
二人の関係は精神的なものだった。
ディ−トリッヒにとっては、「精神的な関
係は肉体関係と同じ」ということになる。
ヘミングウェイの四人目の妻、メアリー・
ウエルシュはディートリッヒが仲をとりもっ
たのだった。
ちなみに、ヘミングウェイのことを”パパ
”と最初に呼んだのは、ディ−トリッヒであ
る。”パパ”ヘミングウェイはディ−トリッ
ヒのことを”ママ”と呼んだ。
ディ−トリッヒの男性関係は、派手でいず
れも本物の男ばかりだ。俳優のジャン・ギャ
バン、二十八歳年下の作曲家、バート・バカ
ラックなど、知的でマチョタイプが彼女の好
みだった。なかでも特別なのは、作家のエリ
ッヒ・レマルクで、彼はフットボールのクォ
ーターバックにでもなれそうな大男だった。
『西部戦線異状なし』でデビューしたが、ヒ
ット作が続かず、それを支えたのが、ディー
トリッヒだった。次作の『凱旋門』は大ベス
トセラーとなった。
一九三〇年四月に、二十九歳のディ−トリ
ッヒはドイツに夫ルドルフと娘をおいて、撮
影のために、単身ニューヨークに行った。
「最初の映画がうまくいかなければ、ドイツ
に帰国させる」という契約をパラマウントと
かわしていた。それが『モロッコ』で、外人
部隊の兵士と酒場の歌手とのせつなく激しい
恋を描いたメロドラマだった。灼熱の砂漠の
彼方に去っていく恋人を追って、ディートリ
ッヒ扮する女アミーがハイヒールを脱ぎ捨て
てついていくラストシーンが評判となってデ
ビュー第一作は大成功を収めた。
この『モロッコ』とその後の『嘆きの天使
』のロ−ラロ−ラで「気性が激しく、エロテ
ィックで男を惑わす女」というイメージが固
まった。
パラマウントではディートリッヒが結婚し
ていて、娘までいる事実を隠そうとした。だ
が、彼女は堂々と公表したうえ、娘のマリア
をドイツから呼び寄せた。
一九三三年一月、ドイツではヒトラーが首
相となると、ユダヤ人追放が始まった。彼女
のところに、ヒトラーからの使者がきた。
「第三帝国の女王になってくれれば、どんな
条件でもかなえてあげる」というものだった
。
「あなたはドイツに戻るべきであり、アメリ
カ国籍を取ろうなどと思ってはいけない」
とも言われたが、彼女ははねのけた。
「ユダヤ人のスタンバーグ監督を起用しない
なら、お断りです」
ドイツ軍人の娘の彼女が第二次世界大戦中
のヒトラーにとって絶好の宣伝材料になるの
は当然だ。ゲッペルス宣伝相を通じて「帰独
・映画」の話があったが、彼女は拒絶したの
だ。
このときヒトラ−の本当の目的は「愛人に
ならないか」だったと彼女自身が述べている
。
「もしそのとき私が『ヤー』と応えたら、あ
のおぞましいユダヤ大虐殺は起こらなかった
かもしれない」と語っている。
一九三七年、ディートリッヒはアメリカ市
民権を取得する。ユダヤ人判事の前で、彼女
は市民として宣誓をした。ドイツではナチ党
の機関紙が「祖国裏切り者」と激しく非難し
た。
一九四一年十二月八日、日米間で戦争が勃
発。その三日後にはドイツ・イタリアもアメ
リカに宣戦布告。戦争は拡大していった。デ
ィートリッヒはあえて前線慰問をした。兵士
たちはまさかハリウッドの大スターが戦地の
最前線までくるとは思わなかったので、熱狂
的に歓迎した。
スーツケースに兵士を喜ばすことのできる
深いスリットや派手な衣装ばかりを詰めこん
だ。前線から前線へと慰問の旅を続けていた
彼女は、あちこちで兵士たちが同じ歌を歌っ
ているのを聞いた。その歌は、『リリー・マ
ルレーン』で、敵・味方なく兵士たちの間に
広まっていた。彼女がドイツ語でこの歌を歌
うと負傷兵たちは涙を浮かべた。
その後、彼女はこの歌を持ち歌に加えて、
長く歌うことになる。
一九四三年から四五年七月のヨーロッパ戦
線終結の日まで彼女は慰問を続けた。戦争が
終わってアメリカに戻ってくると、ベルリン
から意外な知らせが彼女のもとに届いた。
「戦争中に行方不明になっていた母ウィルヘ
ルミナの居所が見つかった」
すでに二人は十五年も会っていなかった。
アメリカの市民権を取ったときには娘を「売
国奴」と呼んだ母親である。連合軍によって
破壊されたベルリンでドイツ人であり続けた
気丈な母だ。その短い再会で、母親は別れ際
に娘の乗ったジープのドアを閉めるとこう言
った。
「もう一度自分自身のことを考えてごらんな
さい」
一九五三年、ディートリッヒは、女優とし
てではなくて歌手として再スタ−トした。五
十二歳の新人歌手だった。
ラスベガスのショーで成功を収めたディー
トリッヒは歌手として世界ツアーに出る決心
をする。世界各地で熱狂的に迎えられたが、
いまだドイツでは公演が実現していなかった
。
一九六〇年五月にディートリッヒはドイツ
の空港に降り立った。「マレーネ・ゴーホー
ム」と書かれたプラカードをもつ者もいた。
その後、イスラエルでは、大喝采を博した。
そのディートリッヒが日本に来たのは一九
七〇年、大阪の万国博覧会のとき、容色はい
ささかも衰えていず、一時間に二十曲熱唱し
た。ショーが終わると熱狂的なファンが「白
い衣装の魔女」に殺到した。
「誰にでも気に入ってもらおうとするのはま
ちがい。ありえないことだし、激しい気性を
もったほうがずっと神秘的。異教徒は崇拝さ
れる」
一九九二年五月六日、大好きなパリで彼女
は九十一歳で亡くなった。柩はベルリンに運
ばれ母親の眠る同じ墓地に葬られた。