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テレサ・テン(歌手)Teresa Teng 
1953.1.29−−1995.5.8

歌姫 princess of song


 一九九五年五月八日、気管支ゼンソクの発作による呼吸困難のために、静養先のタイの チャンマイで急逝した。その死があまりにも衝撃的だったため、自殺説、中共の秘密機関 による暗殺説などさまざまな噂が流れた。
 現代の歌姫テレサ・テンは台湾の雲林県褒忠郷龍岩村に生まれる。本名は、デン・リ− チュンといい、五人兄弟の唯一の女の子として育った。男の子が三人続いたあとだっただ けに、両親は大いに喜んだ。
 退役した父親は商売を始めたものの、うまくいかなかったため、生活は苦しかったが、 母の素桂(ス−・グエ)は、いつも笑みを絶やさなかった。幼いテレサは、歌うのが好き で、美空ひばりの『リンゴ追分』などを歌った。小学校の演芸大会に出たのをきっかけに 、ラジオののど自慢番組に出たこともある。
六歳のときに、父の知り合いで、空軍防砲所に所属していた第九三楽団の音楽教師の教え を受けて歌手になりたいと思うようになった。
 一九六四年、十一歳のとき、中華電台(中華ラジオ)の黄梅唱和コンク−ルで優勝し、 翌年の一九六五年には、登麗君という母親がつけた芸名でデビュ−をした。台北の金陵女 子中学を二年で中退、学業と歌手との両立ができなくなったからである。プロ歌手になっ てからは、からだが弱かったため、母親でつききりで世話をした。九歳のときにゼンソク の兆候が現れ、十四歳のときにははじめて発作を起こした。
 十三歳で台湾電視(台湾TV)の専属歌手に抜擢され、十四歳でレコ−ドデビュ−を果 たした。一九六七年、十四歳のときには、台湾の一流クラブ「巴り」のステ−ジで七十日 間のロングラン記録を作る。CTV中国テレビ「毎日一星」(今日のスタ−)の女性司会 者に抜擢されて、天才女性歌手として注目されたのもこのころだ。
 やがて、ライブハウスなどでも歌い始め、レコ−ディングやテレビ出演をするようにな った。一九七二年、十九歳のときに、香港の十大スタ−に選ばれ、映画『歌迷小姐』(音 楽ファン)に出演した。
 そして、一九七三年に、初来日し、翌年の七四年に、『今日かしら明日かしら』で日本 デュ−を果たした。この歌は、期待されたほどヒットしなかったが、デュ−二曲目の『空 港』が大ヒットして、この年のレコ−ド大賞新人賞を受賞した。
 翌年には、日本での初ライブとめざましい活躍が続いた。
 台湾テレビで、『登麗君専集』(テレサ・テン歌謡集)と題された番組がスタ−ト。な にもかもが、順調に思えたが、一九七九年、二十六歳のとき、日本入国の際に、偽造パス ポ−トをめぐるスキャンダルにまきこまれて国外撤去処分を受ける。そのため、テレサは 公けの場所から姿を消し、アメリカで英語を学びながらレコ−ド制作やコンサ−トを行う ようになった。
 一九八〇年に、ニュ−ヨ−クのリンカ−ンセンタ−、ロスのミュ−ジックセンタ−など の一流の劇場で開催している。また、この年に、テレサは台湾に帰国し、台湾でもっとも 優秀な女性歌手に贈られる金鍾賞を受賞している。
 このころ、中国大陸で『何日君再来』が大ブ−ムとなり、「竹のカ−テン」を越えた「 小登」フィ−バ−と注目される。しかし、本土の権力者たちは、テレサのチャ−ミングで 女らしい声と感傷的なバラ−ドを最悪の中産階級的なセンチメンタリズムだと決めつけた 。『何日君再来』は”反動的イデオロギ−”並びに”国家に対する背信行為”として極刑 に値するという意見まであった。
 ときの権力者たちはひんぱんにテレサの音楽の発売を禁止する命令を出していたが、大 量の日本製テ−プレコ−ダ−が船で輸送されるようになると、テレサのアルバムがダビン グされるのもごく当たり前のこととなった。
複製テ−プはたったひと晩で本土中に出回り、テレサの名声は”改革の立役者”登小平( デン・シャオピン)に迫る勢いだった。
 その後、デン老人の人気が下火となると人びとは「デンじいさんなんかよりリトル・テ ンのほうがずっといい」などと言い始めた(テレサはシャオピンと同じ姓だったが、音の 違うロ−マ字で表記していた)。
 こんな言い方をする者までいた。
「昼間はデン・シャオピンが中国本土を支配していたが、夜はテレサ・テンが支配してし まった」
 テレサのテ−プ一本の値段は、十元から二十元だったが(当時の本土一人当たりの月収 は四十元以下)それでも労働者たちは、闇市で一本のカセットテ−プを買うために月給の 半分を注ぎ込むことなどなんとも思わなかった。
 一九八三年、テレサは三十歳になり、さらに大きなチャンスが待っていた。ラスベガス のシ−ザ−ス・パレスでデビュ−十五周年記念を開催したのである。また、『淡淡幽情』 を発売して、この年のアルバム・オブ・ザ・イヤ−に選ばれた。
 しかし、中国では毛沢東が大号令した文化大革命の失敗とその後の急激な経済革命のせ めぎあいから精神汚染一掃キャンペ−ンが激しくなり、テレサの歌は激しい批判を浴びせ られた。
 一方、香港では、デビュ−十五周年記念コンサ−トツア−が行われ、観客動員数、費用 総額、チケット完売スピ−ドなど香港史上の記録を更新した。
 日本で、シングルレコ−ドの『つぐない』が百万枚近い大ヒットとなる。五年ぶりの再 来日を果たし、日本での本格的な再デビュ−を成功させた。
 日本では、有線放送のリクエストが増え続けた。この年には、日本有線大賞、全日本有 線大賞のグランプリを受賞した。
 このころ、シンガポ−ルに拠点をおいて、二、三カ月に一度来日して歌手活動を行って きた。
 また、シンガポ−ルの財閥二世のロバ−ト・コックとの結婚がとりざたされた。これは ロバ−トの祖母の猛反対によって実現しなかった。
 日本でシングル・レコ−ド『愛人』を発売すると、ヒットチャ−ト十週連続一位を記録 。NHKの紅白歌合戦に初出場、『愛人』を歌って脚光を浴びた。
 一九八六年に、『時の流れに身をまかせ』を発売した。二百万枚近い売上を記録して、 日本での最大のヒット曲となる。
 その後は、『つぐない』『愛人』などの日本のヒット曲を中国語で歌い、アジア市場で もヒットさせた。
 中国で、胡燿邦書記が登麗君の名誉回復を発表した。『登麗君自選歌集』が出版され、 テレビ番組『登麗君の故郷を行く』が放映された。
 一九八七年、日本でシングル『別れの予感』を発売して、日本有線大賞有線音楽賞を受 賞した。一九八八年に『恋人たちの神話』を発売する。香港の赤柱(スタンレ−)に別荘 を購入して、拠点を香港に移していた。
 一九八九年に天安門事件が勃発。民主化運動を支持していたテレサは香港や台湾で多く の場に出演し、歌うことで自らの共感を伝え、深い感銘を与えた。
「いまは香港を離れられない」と予定していた来日を延期した。
 おそらく、テレサが政治的になりすぎたと感じる人もいるだろう。
 作家のコン・キェシェンは言う。
「私は彼女の基本的な道徳観には大いに敬意を表します。天安門事件について、彼女はけ っしてあいまいな審判をくだしませんでした。あの場所で殉教者となった同胞に、彼女は 同情心の強い人ですから、人類のあらゆる苦しみを癒したいと思ったことでしょう」
 テレサが来日を果たしたのは、それから十カ月後のことである。
 一九九〇年、父登句為が亡くなった後、テレサはパリのシャンゼリゼ通り近くにマンシ ョンを購入し、腰を据えてパリに住むようになった。このころ、ステファン・プエルと知 り合う(彼はテレサと最期までいた人物)
 一九九一年に、香港で死亡説が流れ、日本のマスコミにも伝わる。だが、この年の暮れ には、NHK紅白歌合戦に、五年ぶり三回目の出場を果し、『時の流れに身をまかせ』を 歌った。
 一九九二年、パリ、トロカデロ広場での天安門事件三周年記念集会に参加、『血染的風 來』を歌いあげた。
 キャンペ−ンのために来日。広島平和音楽祭に出演した。
 一九九四年十一月に来日したが、テレビ出演した彼女の声は、はりがなかった。少女時 代におきたゼンソクが彼女をふたたび悩ますようになったのである。
 テレサ・テンに三度インタビュ−したことのあるジャ−ナリストの平野久美子氏は、印 象をこう語っている。
「彼女はジャンヌ・ダルクではありません。いい意味でごく普通で、素敵な女性です。歌 手であり、女であり続けたかった人です」
 彼女の歌う歌は、多くの華人の心を揺り動かしている。
 華人ファンにとって人気の曲は『何日君再来』『千言万言』『梅花』『甘蜜蜜』『海韻 』など。日本の曲で知られているのは『グッバイマイラブ』『時の流れに身をまかせ』な どだ。
 少女時代にテレサ・テンのテ−プを聞いて育った世代から現代の王非(フェイ・ウオン )や文敬(アイジン)たちが登場した。テレサは中国ポップスに絶大な影響を与え続けて いる。
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