ローズ・ケネディ(ケネディ兄弟の母)
Rose F・Kennedy
1890.7.22−−1995.1.22
鉄の薔薇 iron rose
一八九〇年、ボストン市長の娘として生ま
れたロ−ズは何不自由なく育った。良家の子
女がそうであるように、どこかのんびりとし
たところがある反面、活発な少女だった。
やがて、娘は同じアイルランド系の青年に
恋をした。ソバカスだらけだが、端正な顔だ
ちで、背が高くスポ−ツマン、ハ−ヴァ−ド
大学で学ぶ優秀なジョ−・ケネディだ。
しかし、ジョ−にはお金がなかったので、
自分の車を手に入れて、ロ−ズに正式に結婚
の申込みをするまでに五年かかった。
一九一四年十月、ロ−ズが二十四歳、ジョ
−は二つ年上の二十六歳。大恋愛の末、二人
は結ばれた。
夫のジョ−は実業家として金融、映画など
で財を築き、アメリカでも有数の金持になっ
た。ル−ズヴェルト大統領の政権下で、駐英
大使になるほど出世した。
だが、一方で派手な女性関係でも名を馳せ
ることになった。
ロ−ズが救いを求めたのは、信仰であり、
子どもたちの成長であった。ロ−ズは信仰深
くて、毎週欠かさずミサに出かけたが、吝嗇
家らしい彼女の逸話が残されている。
「ケネディ夫人、それはいくらなんでも」
と周囲が眉をひそめたが、教会での献金は
多くて一ドル。家庭では少しの電気代も無駄
にしないように消して回ったり、使用人が隠
れて飲まないようにボトルに印をつけておい
た。コ−ラを出して飲めば、一本につき十セ
ントずつ給料が引かれた。
また、ロ−ズは自分の子どもたちに影響が
及ばなければ、夫が何人の女性と関係しよう
が、表だって文句を言わなかった。彼女がセ
ックスするのは子どもがほしいときだけ、「
夫の浮気に長年泣かされてきたロ−ズ」と一
般には言われてきたが、実際にはそんな気弱
な女性ではなかった。
ロ−ズは育児を愛情と義務ではなくて知的
職業として見ていた。教育ママの先駆として
、必死になって子どもたちを育てた。彼女は
育児日記を丁寧につけていた。ファイルカ−
ドを買い、子どもの名前と出来事と期日を系
統的に書きこんだ。
一番上の子どもに、厳しい躾けをした。
「子どもには自然の模倣性があり、両親たち
の行動を最初は真似るが、あとは年長者の真
似をするようになる」
というのが、ロ−ズの教育方針だった。
ロ−ズほど、母親としての誇りを味わった
女性もいないだろう。次男のジョンが米大統
領、三男のロバ−トが司法長官、四男のテッ
ドが上院議員になっている。これは米国史上
例を見ない。
また、ロ−ズほど悲しみを味わった女性も
少ないだろう。九人の子どものうち、四人に
先立たれている。長男のジョ−・ジュニアは
戦死、次男のジョンと三男のロバ−トがとも
に暗殺され、次女キャスリ−ンを飛行機事故
で亡くした。
しかし、ロ−ズは『自伝』の中で言ってい
る。
「生涯最高のことも経験すれば、最悪のこと
も経験しました。悲劇は忘れることはできな
いし、諦めることもできませんが、歳月はそ
れ自身の特権をもっています。ひとつは思い
出すことであり、もうひとつは思い出を選べ
ること。私はよき日を思い出としたい」
一九六三年十一月二十二日、ケ−プ・コッ
ドに晩秋が訪れていた。夏だけの住人や観光
客が去り、村に静けさが戻ってきていた。
その日、ロ−ズは朝、ゴルフをやり、帰宅
して夫のジョ−と昼食を取った。ジョ−はい
つものように昼寝をして、ロ−ズも部屋で横
になった。
するとすぐに、ラジオの臨時ニュ−スで「
大統領がダラスで撃たれて負傷した」とのニ
ュ−スが流れた。
数分後、ロバ−トがホワイトハウスから電
話をかけてきて、大統領の容体は非常に悪く
望みはないと伝えた。
ロ−ズは息子の死を伝えられると、古い黒
のコ−トを着て、冷たい風の吹きすさぶ浜辺
に出て、歩き始めた。小さな彼女のからだは
強い風に何度も揺れた。
彼女は歩きなれた浜辺を歩き続けていた。
しばらくすると甥のジョ−・ガ−ガンが迎え
にきた。
「ジョ−、私たちは歩き続けなければならな
いのよ」
ロ−ズはさらに続けた。
「私たちは振り返ってはいけない、私たちを
必要としている人がたくさんいる。私たちは
これからも前進し続けるの」
脳梗塞で治療中の夫ジョ−には、翌朝にな
ってから、息子のテディが大統領の死を伝え
た。
ワシントンでの国葬の様子を夫のジョ−は
テレビで見るのが、精一杯だったが、ロ−ズ
は参列した。ロ−ズはア−リントン墓地の最
後の儀式で、国葬に参列した国家元首や名士
、友人たちに遺族としてお礼を述べている。
このときもロ−ズは鉄のように強い意志をも
った”鉄の薔薇”(アイアン・ロ−ズ)であ
り続けたのである。
一九六八年六月五日、大統領予備選で勝利
宣言をしたばかりのロバ−ト・ケネディがロ
サンゼルスのアンバサダ−・ホテルで狙撃さ
れた。
五年の間に、同じ災難が二度、彼女を襲っ
たのである。
「小説で読んだとしても信じられないでしょ
う」
とのちにロ−ズは語っている。
ロ−ズは憔悴しきっていたが、それでも彼
女はミサに出かけた。
「神よ慈悲をたれたまえ」と祈り続けた。
翌、六月六日にロバ−トは息を引き取った
。
「いつかはイエス・キリストがよみがえり、
亡き夫や息子たちとも会える日がくる」
ロ−ズはそう信じていた。
ロ−ズが彼らのもとに召されたのは、一九
九五年一月二十二日。百四歳と六カ月であっ
た。
ロ−ズの葬儀は、何十年も前、ジョン・F
・ケネディやロバ−トの葬儀が行われたと同
じように本人にふさわしい形で行われた。大
聖堂ではなくて、つつましいセント・スティ
−ヴンズ教会で行われた。一世紀前ロ−ズが
洗礼を受けたボストンのノ−スエンドの教区
教会である。ノ−スエンドはアイルランドか
ら来た祖先がこの地で根をはり、ロ−ズが育
った街である。
ボストン特有の寒風が吹きすさぶなか、何
百人ものボストン市民がロ−ズを偲んで、無
言で佇んでいた。
ロ−ズは息子三人、娘一人、嫁一人、婿一
人、孫息子一人、そして友人の誰よりも長く
生きた。
「母は最大の教師でした」
娘のユ−ニスが弔辞を述べた。
彼女はすべての子どもたちにとって生きる
力を与え続けた、そしておそらくは夫のジョ
−にとっても。
ロ−ズはブルックラインのホ−リィフッド
墓地にある夫の墓の横に埋葬された。それは
夫妻が初めて二人で築いた家からほど遠くな
いところにある。