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ダイアナ・ヴリ−ランド(編集者)
Diana Vreeland 

1903.-.-−−1989.-.-

疾走 full gallop


 ブロ−ドウェイの劇場で、ダイアナ・ヴリ −ランドをモデルにした『フル・ギャロップ 』が上演された。『ヴォ−グ』の編集長を解 任された一九七一年、場所はパ−ク・アベニ ュ−にある赤い色自宅。壁からクッションに いたるまですべて赤で統一されている。
 オウム、ダチョウにも似た特徴ある顔の両 頬には赤い頬紅が塗りたくってある。赤い爪 には長いシガレットホルダ−、腕には大きな ブレスレットをはめている。
「これでどうかしら?」
 ヴリ−ランドは、友人に頬紅の具合が充分 がどうか聞いた。友人が見ると、彼女の顔に は、顎の近くから髪のはえ際まで頬紅が塗り たくってある。
「かなり塗ってあるわ」
 友人がそう答えると、ヴリ−ランドは言い 返した。
「それはわかっているの。でも、充分かどう か聞いているの」
 ヴリ−ランドにとっては、どこまでいって もこれで充分ということはなかった。
 その彼女が一九七五年に、来日した。京都 では芸者に心を動かされた。
「アメリカの女性も芸者の生き方を真似たら いいのに」
 相撲と歌舞伎に感動した。
「あの美しさには、からだが震えたわ」
 ヴリ−ランドがそう言ったのは、坂東玉三 郎である。
 個性的なものを彼女は愛した。
『ハ−パ−ズ・バザ−』『ヴォ−グ』誌の敏 腕編集長として四十年間君臨した。デザイナ −たちはファッション・ショ−で彼女が拍手 をしたかどうか、息を顰めて見守っていた。
 ダイアナ・ヴリ−ランドは、一九〇三年( 六年説もある)、パリに生まれた。父は裕福 なアメリカ人で、母はスコットランド人。生 家のあったブロ−ニュの森に近いフォッシュ 通りは、ブルジョワ階級が住んでいて、その 界隈にはエレガントに着飾った女性たちが溢 れていた。
 一九一四年に一家は、ニュ−ヨ−クに引っ 越した。二十歳のとき、ヴリ−ランドが一目 惚れしたT・リ−ド・ヴリ−ランドと結婚す る。彼は二十五歳も年上だったが、服装セン スのいいハンサムな銀行家だった。
「私は自分の容貌に不満だった。でも夫から 『あなたは美しい』と言われたから、がぜん 自信をもったわ」
 アメリカに大恐慌が起こる直前、夫の転勤 でロンドンに移った。しばしばパリに使用人 を連れて出かけ、大いに買い物を楽しんだ。 彼女は友人が経営するロンドンのブティック を手伝い始める。彼女がパリで集めたアンテ ィ−クのレ−スやリネンが、ロンドンの上流 階級の間でたいへんな評判になった。客の中 にはのちにイギリス国王との「王位を賭けた 恋」のヒロインになるウォリス・シンプソン もいて、ウィンザ−公亡きあとまで、二人の 交流は続いた。また、このころデザイナ−の ココ・シャネルとも知り合っている。
 エレガントなヴリ−ランド夫人の装いは有 名になり、アメリカの『ヴォ−グ』や『タウ ン&カントリ−』などに、紹介されたことも ある。
 そして夫とともにニュ−ヨ−クに戻り、三 十歳を過ぎてからファション・ジャ−ナリス トとして活躍する。豪華雑誌『ハ−パ−ス・ バザ−』の編集長カ−メル・スノウに誘われ て、コラムを書くようになったのがきっかけ だった。
 二年後には、ファッション・エディタ−に なる。ア−トディレクタ−の神様といわれた アレクセイ・ブロドヴィッチと組んで、優れ たファッション写真を数多く世に送り出した 。
 鬼才リチャ−ド・アヴェドンなど後世に名 を残す多くの優れた写真家たちと仕事をして 『ハ−パ−ス・バザ−』の黄金時代を築きあ げた。編集者としてのダイアナ・ヴリ−ラン ドの力は絶大で、一九六二年に、ライバル誌 の『ヴォ−グ』が彼女を引き抜いた。
「お金じゃなくて、パリ・コレが見に行ける から」
 というのが、ヴリ−ランドが承諾した理由 だった。
「パリが、ヨ−ロッパが恋しかった」
 彼女が好んで着たのは、ヨ−ロッパのクチ ュリエ。シャネル、スキャパレリ、バレンシ アガ、そしてサンロ−ランなど。
 ヴリ−ランドが自分の『ヴォーグ』を作ろ うとしていたころは、サンロ−ランがファッ ション界のスターになる後押しをした時期と 重なっている。
 ヴリ−ランドによって売り出されたスタ− たちは、デザイナ−だけではない。新人モデ ルとして初めて『ヴォ−グ』編集部に顔を見 せたロ−レン・ハットンの才能を見抜いたの も、ヴリ−ランドだった。アヴェドンに新人 の彼女をすぐに撮影させた。
 女優のロ−レン・バコ−ルがまだ無名だっ たころ、『ハ−パ−ス・バザ−』で初めてモ デルに登用したのも、ヴリ−ランドだ。その 写真のおかげで、バコ−ルはハンフリー・ボ ガードと知り合い、ヘミングウェイ作の『脱 出』に主演した。
 エネルギッシュで行動力にまかせて全速力 で走るというのが、彼女の信条だった。
 ヴリ−ランドが愛した色は赤だった。自宅 も、『ヴォ−グ』編集部も後年顧問を務めた メトロポリタン美術館も、彼女のオフィスも 赤だった。
 だが、彼女が真に求めていたのは、「ルネ サンス期の絵画に描かれた子どもの帽子」の 赤というから、当時はまだ自分がほんとうに 求めていた赤を見つけたわけではなかった。
 しかし、ヴリ−ランドの日常の服装はいた って簡素だった。基本は、黒かグレ−のカシ ミアのセ−タ−にパンツ。そこにスト−ルを 巻いて、大ぶりのコスチュ−ム・ジュエリ− をいっぱいつけるだけ。足元は赤のティ−ス トラップのヒ−ル靴で、いつも新品に見える ように毎日靴底に黒いクリ−ムをつけていた 。パ−ティ・ドレスは着る三日前にはクロ− ゼットから出しておき、風にさらした。
 モ−ド界に影響を与え、読者にファンタジ −を送り続けてきたヴリ−ランドだったが、 七十年代になると、『ヴォ−グ』の経営者と 彼女との考え方が合わなくなる。米ソの冷戦 時代に、豪華な雑誌(スリック・マガジン) の部数も落ちてきたのである。
 女帝といわれた彼女もついに『ヴォ−グ』 を追われる。
 その後一九七一年、彼女はメトロポリタン 美術館に衣装部の特別顧問として招かれて多 くの展示会などを手がけた。あくまでもエレ ガンスとファンタジ−を追求した。
「下品になるのを恐れちゃダメ」
「若さと美しさの模倣なんて最低」
 ヴリ−ランドは何よりも個性あるスタイル を尊重した。
 一九八九年に亡くなるまで、モ−ド界にも っとも影響力のある女性として君臨したヴリ −ランドだが、彼女の疾走する生き方のスタ イルは自分自身で創った。
「中途半端はダメ。もっと極端に、極端に。 ファッションも生き方も」
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