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マ−ガレット・ミッチェル(作家)
Margaret Mitchell 

1900.11.8−−1949.8.16

竜巻 tornado


「女にも脳ミソがあると知ると、たいていの 男は幻滅する」
(『風と共に去りぬ』)
 不滅の名作『風と共に去りぬ』一作を残し て人生を駆け抜けていったマ−ガレット・ミ ッチェルは、一九〇〇年ジョ−ジア州アトラ ンタで生まれた。その当時は、まだ南北戦争 での破壊を奇跡的に免れた家が何軒か残って いた。
 マ−ガレットは内気な面もあったが、子馬 を乗りまわしたり、兄と高い木に登ったりす るのが好きだった。十一歳か十二歳までは男 物のズボンをはいていた。
 母は厳しく、悪戯をするとヘアブラシで折 檻をした。父は優柔不断だった。
 一九一八年六月、マ−ガレット・ミッチェ ルはワシントン女学院を卒業して、東部の名 門、スミス・カレッジに入学した。その十八 歳の夏、彼女はハ−ヴァ−ド大学を優秀な成 績で卒業したクリフォ−ド・ヘンリ−という 青年と恋に落ちた。
 二人は婚約を発表したが、クリフォ−ドは 第一次世界大戦で戦死。さらに母が亡くなっ たこともあって、ミッチエルはスミス・カレ ッジを中退して故郷アトランタに戻った。二 十二歳のミッチェルが心を奪われたのは、ベ リアン・K・アップショ−という若者だった が、髪の毛の色にちなんで”レッド”と呼ば れていた。ジョ−ジア大学の出身で生家は武 器商人。彼は定職をもたず、飲酒癖もあり、 ミッチェルに暴力をふるった。彼は『風と共 に去りぬ』のレット・バトラ−に似ている。
 結婚して数カ月もしないうちに、アップシ ョ−はアトランタの家を出てしまい、二度と 戻らなかった。だが、彼女は彼に対する非難 も弁解もまったく口にしなかった。
 アップショ−のことは、その後も一家の者 は口にしなかった。生活も中途で放棄、結婚 生活も失敗に終わったミッチェルは人生その ものが敵だと思い始めていた。その一部始終 を温かく見守っていたのが、のちに結婚する 記者のジョン・マ−シュである。
 一九二二年の十二月からミッチェルは、『 アトランタ・ジャ−ナル』紙の記者になった 。幼いころから書くことが好きだった彼女は 、記者の才能を発揮した。当時、無声映画の 大スタ−俳優ヴァレンチノを取材するなど、 頭角を表した。
 一九二〇年代は、ビジネスや金儲けに支配 された実利主義の時代でもあったが、彼女は 自由奔放なフラッパ−のような生き方に憧れ ていた。
 一九二五年七月四日に、ミッチェルとジョ ン・マ−シュは結婚したが、彼は大病をして 入院し、夫妻は大金を使い果たしてしまった 。ジョ−ジア出身の将軍たちの短い評伝を書 くと、評伝に対する賛辞がミッチェルのもと に殺到したこともある。彼女はスタ−記者と して充実した生活を送っていた。
 しかし、一九二六年五月にはジャ−ナル紙 を退職する。記者生活に満足してはいたが、 何よりも彼女は「結婚した女はまず何におい ても妻でなければならない」と考えていたか らである。もっとも、記者を辞めたからとい って、書くことを止めてしまったわけではな い。「書くことは私の天職です」と彼女は明 言していた。
 家庭に入ってからのミッチェルは愛用のレ ミントンのタイプライタ−を打ち続けた。早 朝から夕方まで、さらに夕食後から十一時か 十二時まで執筆することもあった。まったく タイプライタ−に向かわない日もあったが、 頭の中にはすでに物語ができあがっていた。
 物語のどこからでも書くことができた。事 実彼女が書いたのは、最後の章からである。 ミッチェルの友人たちは、彼女が何かを書い ていることは知ってはいたが、どんな内容な のかは皆目検討がつかなかった。料理の入門 書なのかしらんと思うものさえいた。
 ミッチェルは書き終えた原稿をマニラ封筒 に入れると、一章ごとにまとめ、裁縫台の横 に積み重ねていった。しだいにその封筒の山 は、裁縫台と同じ高さになった。一九二八年 の末には、腰を掛けられるほどの高さまでに 。実際にその山に腰を掛けた訪問客もある。 三五年に完成したときには、マイチェルの肩 の高さに達した。
 タイプ用紙は黄ばんで色あせ、ぼろぼろに 破れそうになっている。そればかりではない 。タイプで打ったほとんどの行に鉛筆でぎっ しり書きこみのあるペ−ジもあった。原稿に は非常な努力による推敲のあとが見られた。 同一の章でも表現の違う未完成のヴァ−ジョ ンがあったり、未完成なのか、どこかにしま ってあるのか、何章分か抜けたりしていた。
 しかし、内容は素晴らしくマクミラン社か ら出版されることになった。前払い金は五百 ドルで、三五年当時としては大金だった。  正式に契約をしてから、さらに彼女は書き 直している。第一章は、じつに四十一回も推 敲した。一部は最後に目を通してから、十年 近くもたっていた。原稿の修正作業は思いの 他、時間がかかった。女主人公の名前ははじ めはパンジ−・オハラとなっていたが、どう もピンとこなかった。スト−ム・オハラ?  それも悪くないけれど、とあれこれ考えてい るうちに、なにげなく鉛筆で”スカ−レット ”という名前を書いた。
 出版社では題名を『明日がある』(ANO THER DAY)と決めていたが、マ−ガ レットは不満だった。そこで思いついた題名 を二十四ほど考えて、出版社に送った。『風 と共に去りぬ』はその十七番目に当たる。こ れがもっともいいと注をつけておいた。
『風と共に去りぬ』は出版されると、たちま ちベストセラ−リストに踊り出た。半年後の 一九三六年十二月には、ついに百万部に達し ている。
 やがて、成功とともに奇妙な事件が彼女の 身にふりかかってきた。
 あるときなど彼女の家には、見知らぬ青年 が訪れてきて問いただした。
「メラニ−の赤ん坊の父親はレット・バトラ −だったのでしょうか?」
 ミッチェルはうんざりしながらも、赤ん坊 の父親はメラニ−の正式な夫であるという答 えをしなければならなかった。
 ミッチェルは一時、健康を害したことがあ る。両目の失明の危機に陥ったが、そのため 彼女が全盲になったという噂が広がった。
 朗報が舞いこんだこともある。一九三七年 四月に、この作品がピュリッツァ賞の最優秀 長編小説に選ばれたのである。
 一九三九年十一月十五日、ジョ−ジア州全 体が臨時休日となった。その日、映画『風と 共に去りぬ』のプレミアショ−が行われたが 、映画は大成功を収めた。翌年の二月には入 場券が一千万枚を超えた。ロ−ドショ−の終 わった六月にはじつに二千五百万人の観客を 動員した。四〇年には、アカデミ−賞を受賞 したのだった。
 しかし、突然、「竜巻」がやってきて、彼 女を奪っていってしまった。
 一九四九年八月十一日、ミッチェルは、映 画を見るために、夫とジョンと出かけた。映 画館の前で車を駐めて、通りの反対側にある 映画館に向かって歩き始めた。彼らが通りを 半分ほど渡ったとき、一台の車が猛スピ−ド で走ってきた。車は二人を目がけて突進して きて、撥ね飛ばした。警官がすぐにかけつけ 、そのタクシ−運転手を逮捕した。ミッチェ ルは十六日まで生き続けたが一度も意識を取 り戻さなかった。
 現在、マ−ガレット・ミッチェルはオ−ク ランド墓地に静かに眠っている。
「死と税金と出産! 自分の時間をもてる女 などいるはずがない」
 生前、ミッチェルはそう語っていた。
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