ジョーン・クロフォ−ド(女優)
Joan Crawford
1904.5.23−−1977.5.10
欲情 itch
えせ淑女のジョ−ン・クロフォ−ドは、セ
ックスに関して、ばかげた婉曲表現をよく使
った。たとえばセックスは「天国に行く」お
っぱいは「おばかなパイ」といった具合に。
その彼女はニュ−ヨ−ク・シティでコ−ラス
ガ−ルをしていたころ、すくなくとも二本の
ポルノ映画に出たことがある。
クロフォ−ドは四十年におよぶ女優生活の
間に八十本以上の映画に出演し、スクリ−ン
史上最も長い間、活躍した大スタ−の一人で
ある。結婚してペプシコ−ラの重役をつとめ
たことでも知られる。
ジョ−ンの本名はルシ−ル・ルス−ルで、
テキサス州サンアントニオに生まれた。自身
では一九〇八年の生まれと言っているが、多
くの記録によれば、三、四歳上のようだ。彼
女が生まれる前に、両親のト−マスとアンナ
は離婚した。母はまもなくオクラホマ州ロ−
トンのボ−ドヴィル・シアタ−の経営者のヘ
ンリ−・キャスティンと結婚した。
一九一六年、ルシ−ルはミズリ−州カンザ
スシティに引っ越した。母と継父はまもなく
別れ、九歳で働き始めた。最初は母を手伝っ
てクリ−ニング屋、さらにセント・アグネス
・アカデミ−とロッキンガム・スク−ルに進
んでからは他の三十人分の子どもたちの調理
、皿洗い、給仕、ベッドメイキングをした。
働くことは嫌ではなかったが、奴隷のように
扱われたと彼女は回想している。
働くことで勉学からは遠ざかっていった。
ミズリ−州コロンビアのスティ−ブンズ・カ
レッジに進学したが、三カ月で退学した。ロ
−ティ−ンのころ、カンザスシティにあるカ
フェのチャ−ルストン・コンテストに優勝し
たこともある。
ずんぐりと太って、おとなしいルシ−ルだ
ったが、一九二四年にはニュ−ヨ−クに飛び
出し、踊り子として舞台に立つようになった
。
ジャズエイジの流行作家のフィッツジェラ
ルドをして「フラッパ−の典型」といわしめ
たルシ−ルは、ブロ−ドウェイで踊っている
ときに、映画会社のMGMに認められて五年
契約を結んだ。この当時、娼婦のような生活
を続けて、全裸の写真を撮らせている。当時
は誰も知らなかったが、レズビアンでもあっ
た。
そして一九二五年の元旦、ロサンゼルスに
発ち、いよいよ女優としての第一歩を踏み出
す。厳しい食餌制限と歯列矯正で彼女のイメ
−ジは一新し、ファッション雑誌でMGMが
芸名を募集した結果、ジョ−ン・クロフォ−
ドに決定した。一九二七年の終わりには、身
長一六三センチの若手女優は私生活でも華麗
に変身する。毎週、髪の色を変え、脚線美を
強調するミニスカ−トで踊り、男たちにエス
コ−トされて町を闊歩したものだった。
クロフォ−ドは、「スクリ−ンの女王」と
呼ばれ、ときには「興行界の毒薬」などとい
うレッテルを貼られた。永遠なるトップの座
が彼女の最大の狙いでその他のこと−−夫、
恋人、子どもなどは二の次だった。
ジョ−ンの結婚は四回におよび、いずれも
申し合わせたように四年間しか続かなかった
。夫を替えるたびにブレントウッドにある自
宅の呼び名も変え、トイレのシ−トも取り替
えた。
最初の結婚相手は、ハリウッドでは名門の
家柄、華麗なるフェアバンクス家の息子、ダ
グラス・フェアバンクス・ジュニアだった。
「王子とシンデレラ」などと呼ばれたこのカ
ップルは、彼の家族の強い反対を押し切って
、一九二九年六月に強引に結婚式を挙げた。
だが、父フェアバンクスと、当時の妻メリ
−・ピックフォ−ドは、二十五歳のジョ−ン
と四十五歳のダグラス・ジュニアの年齢差に
不満を示して、式をすっぽかしてしまった。
二年間は理想的だった結婚生活も、最後は修
羅場と化してあっけなく破局を迎えた。
俳優のクラ−ク・ゲ−ブルとの関係は不倫
で終わり、一九三五年に今度は、三十一歳に
して、三十歳の俳優、フランチョット・ト−
ンとめでたく結婚にこぎつけた。子どもさえ
できればうまくいくと彼女は信じて疑わなか
ったが、結局は二回の流産のすえに、二度と
子どもの産めないからだになってしまった。
四年後の一九三九年に、夫の浮気を理由に離
婚した。
男性の愛情に飢えた三十八歳の女優は、寂
しさに耐えかねて一九四二年、三歳年下の俳
優フィリップ・テリ−と結婚した。彼は、一
八五センチの長身で、セックスだけは強かっ
た。クロフォ−ドも撮影の合間にはかならず
「テリ−との一時」つまり、セックスの時間
を儲けていたほど相性が合っていた。
この生活では心の平安は得られなかったの
で、彼女は子どもを養子縁組することに関心
を示し出した。
一九四七年には、キャシ−とシンシアとい
う二人の幼児と養子縁組をした。この子ども
たちは赤の他人で、生まれ月も違えば、もち
ろん顔も似ていない。それなのに、なぜかジ
ョ−ンは常に二人を双子扱いにしていた。ジ
ョ−ンの常軌を逸した振る舞いは日増しに露
骨になっていった。深酒をして肌もあらわな
恰好で接客することも珍しくなかった。ロッ
ク・ハドソンやジョ−ジ・ネイダ−など当時
の若手スタ−を含めて、おびただしい数の男
たちとデ−トをして、そのあげくに二件の離
婚訴訟で「加害者」として訴えられる始末だ
った。
同時代の映画スタ−、ベティ・デイヴィス
と犬猿の間柄として知られる。ところが、こ
れはマスコミ向けの顔で実際は長くレズビア
ンの関係にあった。マリリン・モンロ−がス
クリ−ンでセックスを売り物にしていると公
然と批判したが、実際にはジョ−ンのほうが
よほどふしだらな生活を送った女優だ。
もっとも私生活は乱れてはいても肉体だけ
は最高の状態を維持し続けていた。『恋の歌
』(日本未公開)の撮影前、この五十二歳の
女優は部屋着だけをまとった姿でチャ−ルズ
・ウォルタ−監督の私邸を訪れ、上着を脱ぎ
捨てると囁いた。
「あなたがこれから使う女優よ、しっかり品
定めをしておきなさい」
ジョ−ンの四度目の結婚は、一九五五年五
月、今度の相手はアルフレッド・スティ−ル
でペプシ・コ−ラの社長だった。彼はエラの
張った精力的な男だった。一九五九年に彼が
心臓発作で死ぬまで、ペプシの販売促進を図
って夫妻で世界中をまわった。
結婚半年後には、ジョ−ンは老眼鏡を掛け
た五十四歳の彼を「太りすぎだし、耳も遠い
」と言っている。もっとも、ジョ−ンが初め
て心から愛した相手はアルフレッドだったこ
とを、晩年になって告白している。
『ジョ−ン・クロフォ−ドとの対話』の中で
、彼女はインタビュア−のロイ・ニュ−クイ
ストにこんなことを語っている。
「枕はほんとうに愛する人がいないときの情
けない代用品なのよ。一人で寝るときは、ア
ルフレッドと双子の子どもたちのことしか考
えない」
ジョ−ンらしいエピソ−ドには、こんなの
がある。
スタ−ダムにのし上がってからのジョ−ン
はカメラ写りが悪いからといって、生理中に
カメラの前に立つことを断固として拒否して
いた。だが、映画出演のためならなんでもや
った時期があって、ポルノに出ていたことが
あるのだ。それを十万ドルもの大金をつぎこ
んですべてのフィルムを買いあげた。
ところが、後になって収集家がもっている
ことがわかった。が、その家は原因不明の火
事で焼け出された。
さらに何年かたって、彼女のポルノの完全
版をプラハの軍事工場の大実業家が秘蔵して
いた。