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『悪女と呼ばれて』(愛に生きる伝説の女たち) 一覧に戻る

ヴァネッサ・レッドグレ−ヴ(女優)
Vanessa Redgrave
1937.1.30−−

怒り anger

 一九七七年、第五十回アカデミ−賞授賞式 が行われるドロシ−・チャンドラ−・パヴィ リオンは、異様な雰囲気につつまれていた。 警官のバリケ−ドの後ろは黒山の人だかり。 アラブ系アメリカ人がパレスチナ国旗(赤・ 緑・白・黒色)を振り、反対側の道路では、 ユダヤ人防衛連盟のメンバ−がヴァネッサの 人形を燃やしている。
「アラファトの売女」
 と叫びながら、黒こげになった人形の回り で踊っているのだ。
 ヴァネッサ・レッドグレ−ヴは『ジュリア 』でゴ−ルデン・グロ−ブ賞を受賞し、さら にアカデミ−助演女優賞にノミネ−トされて いたのだ。
 映画『ジュリア』は、一九五〇年代、反ナ チスの運動家として闘ったジュリアと作家リ リアン・ヘルマンとの友情を描いた作品であ る。リリアンをジェ−ン・フォンダが演じ、 ジュリアをヴァネッサが好演した。
 ジュリアとヴァネッサの社会の抑圧された 人びとのために闘う姿勢が、多くの観客に重 なって見えた。映画は好評だったが、一方で は多くの人たちの反発を招いた。ユダヤ人防 衛同盟は二十世紀フォックスに、今後ヴァネ ッサを使わないと表明しないかぎりあらゆる 手段で営業妨害を行うと言明していた。
 アカデミ−賞授賞委員会は、「かりに賞を 受賞しても、ありがとう以外は言わないよう に」と忠告した。
 授賞式会場では、武装した私服の警官が警 護に当たっていた。
 ジョン・トラボルタが舞台の中央で、封筒 を開け、ヴァネッサの名前を呼び上げた。ヴ ァネッサは壇上に上がり、ジェ−ン・フォン ダや監督のフッド・ジンネマンにお礼を述べ たあと、こう述べた。
「ファシストと人種差別主義にもとづくナチ ス・ドイツとの戦いにすべてを犠牲にするこ とをいとわなかった数百万人のうちの二人の 女性に賛辞をおくります」
 むろん、これはジュリアとリリアンのこと で、そのあとヴァネッサは矛先をユダヤ人防 衛同盟に向けて強い口調で言った。
「シオニストたちの脅しを頑としてはねつけ た自分自身を誇りに思います」
 このところでは、二階席からブ−イングが 起きたが、ヴァネッサは続けた。
「私は今後も反ユダヤ主義とファシズムに戦 いを挑み続けることを誓います」
 ヴァネッサがそう挨拶を終えると、大喝采 となった。
 映画『ジュリア』の中で、ジュリアがこう 言う場面がある。
「怒りを忘れたらおしまいよ」
 ヴァネッサの生き方もジュリアの言葉に象 徴されるように激しいものだ。
 ヴァネッサ・レッドグレ−ヴは、一九三七 年、ロンドンに生まれた。父は名優のサ−・ マイケル・レッドグレ−ヴ、母も女優のレイ チェル・ケンプスン、母方の祖母や父方の祖 父も俳優であったというから、ヴァネッサは 生まれついての女優といえるだろう。
 実際、彼女は六歳か七歳のころから友人や 弟のコリンズと一緒に芝居の稽古をし、自分 で脚本を書くなどして、女優を志すようにな った。
 二十歳で、プロの舞台女優として歩みだし た彼女は、父マイケル主演の病院を舞台にし た映画『仮面の影』でスクリ−ンデビュ−を 果たすが、しばらく映画を離れ舞台に専念。 そのころ、イギリス演劇界の若き秀才トニ− ・リチャ−ドソンと出会っている。
 快活で型にはまらず、政治に関しても大胆 で腹蔵のない見解をもつトニ−にヴァネッサ は強く惹かれた。
 一九六二年四月、二人は結婚し、タ−シャ とジョエリ−という二人の娘に恵まれた。愛 する男性と子どもに囲まれた穏やかな生活。 女として、女優として満たされたヴァネッサ は、カレル・ライス監督の『モ−ガン』に出 演して、六六年のカンヌ映画祭女優演技賞を 獲得した。
 あらゆることが順調な彼女とは対称的に、 世界は破滅に向かっていた。アメリカのヴェ トナム介入が始まり、「情報・支援ミッショ ン」と銘うって、軍隊と武器をヴェトナムに 送り込み、北爆が本格化していった。
 約二万五千人の兵士が南ヴェトナムに送り 込まれた。南ヴェトナムは政情が不安定で、 アメリカは戦局が好転しないことにいらだっ ていた。そこで、空軍少将グェン・カオ・キ にク−デタ−を起こさせ、政権を奪わせた。 アメリカは不利な戦局打開に役立つ人物をを 掌中に収めたのである。
 そんな折り、ヴァネッサはヴェトナム共和 国からやってきたジャ−ナリスト夫妻から昼 食会に招かれ、ヴェトナムに行って、アメリ カ軍の爆撃の爪痕を自分の目で見る気はない かと持ち掛けられた。ヴェトナム行きを承諾 すれば、現地の情報を人びとに伝えることも できるだろう。
 しかし、それと引き換えに映画界で成功す るチャンスを失うかもしれない。人生がバラ 色に見えた時期だけにヴァネッサは「ヴェト ナムへ行ってもお役に立てそうにありません から」と、もっともらしい言い訳をして断っ た。
 ヴェネッサは煮え切らない自分が恥ずかし く、腹が立ってならなかった。焦りとも、怒 りともつかない苛立ちが彼女を押さえつけ始 める。その苛立ちから逃れるように彼女は仕 事に執着してゆき、しだいにトニ−との間に すき間風が吹くようになっていく。
 二人とも自分の道を追求することを望み、 仕事を減らすなどという考えはまったくもち 合わせていなかった。すれ違いの日々が続き 、お互いの距離が開いていった。
 そして、トニ−はフランスの名女優ジャン ヌ・モロ−と恋に落ちてしまう。理性では夫 とモロ−の関係はなりゆきだと受けとめたが 、見捨てられたような気持ちは拭いきれない 。さまざまな考え、感情、記憶がぐるぐる渦 巻きながら彼女の上を流れていった。「しが みつきたい」という気持ちの一方で「引きこ もり、癒されたい」「前に進んで事態を乗り 切りたい」とさまざまな激しい感情が交差す る。混乱と心痛の嵐に耐えかねて、彼女は友 人と一夜をともにし、それがトニ−を知った 。
 二人の破局は決定的だった。
 ヴァネッサとトニ−は互いに思いやる心を 欠いていたわけではない。尊敬し、愛し合っ てもいた。しかし、精神的なレベルの絆の結 びつきに比べ、現実を動かしたり利益を与え ことが乏しいカップルだったのだ。
 アンバランスな関係のまま、マルグリット ・デュラスの長編をもとにした『ジブラルタ ルの水夫』で二人は初めて映画監督、主演女 優として映画の仕事を一緒にすることになっ た。
 この物語ではジャンヌ・モロ−が主役を演 じ、イアン・バ−ネン物語の中心人物となり 、ヴァネッサの役は、彼の婚約者シ−ラだっ た。人のいいイギリス女性で、モロ−に彼を 奪われるのだ。ヴァネッサは複雑な思いだっ た。個人的な問題を仕事に持ち込んではいけ ないというプロ意識とは裏腹にシ−ラと自分 がだぶってうまく演技ができない。
 葛藤のすえ、プロ意識を優先させようと決 心した。この仕事を立派にやり遂げれば、誇 りに思える何かを得られるはず。そう信じ、 途中で投げ出すことなく、シ−ラを演じきっ た。
 撮影を終え、別居か離婚するかについて話 あった。二人の娘のことを考え、さしあたっ て結論は急がなかった。
『モ−ガン』でカンヌ映画祭女優演技賞に輝 いた彼女は、現実世界から切り離して芸術は 考えられないという立場をとるようになった 。
 その後、アメリカ映画界に招かれて、主演 した『キャメロット』で共演のフランコ・ネ ロとロマンスが生まれ、トニ−との離婚も成 立した。ヴァネッサは離婚成立後もフランコ とは結婚せず、同棲生活を続け、六九年に長 男のカルロをもうけた。
 息子の誕生を『タイムズ』紙で発表し、「 未婚の母」としてマスコミを騒がせ、それに ともなって、ウ−マン・リブ、ヴェトナム反 戦デモのリ−ダ−、反核デモ、アパルトヘイ ト問題、反体制派の政治闘士として政治運動 に熱中していく。七四年のイギリス選挙戦で は左翼の労働革命党から立候補したものの惜 しくも落選。
 仕事では、八歳のころから習っていたバレ エを生かし、カレル・ライス監督のウォ−ェ ヴィキ政権に招かれた。モスクワで、ソヴィ エトの子どもたちのためにダンス・スク−ル を開校しようとするイサドラ・ダンカンの生 涯を描いた『裸足のイサドラ』で再度カンヌ 映画祭女優演技賞を獲得している。
 ヴァネッサの作品は、いつも見る者に大き な問いを投げかけている。人間の存在につい て社会の矛盾について、「考えさせる」映画 なのである。自らがよしとした道を超然と突 き進んでいく潔さ、美しさ。その姿はどこか でヴァネッサとも重なっている。
主義主張を貫こうとすれば、多くの人びと との対立は避けられない。
「女優は芝居だけしていればいい。偽善的な 売名行為はやめろ」
 そんな心ない言葉にヴァネッサは揺るぐこ とはない。
「舞台は俳優の国です。何度こようと、パス ポ−トにスタンプを押してもらわなければな りません。さもないと、市民権を取りあげら れてしまうからです」
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