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マ−ガレット・バ−クーホワイト(写真家)
Margaret Bourke−White
1904.6.14−−1971.8.27

成功 fortune

 マ−ガレット・バ−クーホワイトは、一九 三〇年に『フォ−チュン』の最初の写真家と なり、六年後には、『ライフ』創刊号の表紙 とトップペ−ジを撮影した。『U・S・カメ ラ』が、「世界で一番有名な現場特派員とし て女性を選んだ」と記したように、従軍写真 家として第二次世界大戦などの戦線に赴いた 。
 一九三六年には、「十人の傑出したアメリ カ女性の一人」に、六五年には「二十世紀に 生きるアメリカ女性のトップ・テン」に選ば れ、生きながらにして、伝説の人物になった 。
 カメラを片手に馬にまたがってロシア大陸 を駆け抜け、ニュ−ヨ−クの地上六十一階の 高さにあるガ−ゴイル(ゴシック建築で怪獣 の頭などの形をした屋根の雨水の落とし口) によじのぼったり、魚雷攻撃を受けても生き 延び、第二次大戦の大爆撃作戦にも同行した のだった。
 そのマ−ガレット・バ−ク−ホワイトは一 九〇四年、ブロンクスのハリソン・アベニュ −で生まれた。二一年の秋にはニュ−ヨ−ク のコロンビア大学に入学した。二二年一月、 輪転機の発明に一生を費やした最愛の父ジョ ゼフが亡くなった。
「父は自分の人生にとって偉大な三要素、す なわち仕事と真実と美を教えてくれた」
 悲しみが癒えないままバ−ク−ホワイトは 大学に戻ったが、そこで父が趣味としていた 写真を始めることにした。当時、高名な写真 家のクラレンス・H・ホワイトが週二回行っ ていた写真の授業をとった。
 どこに行くにもバ−ク−ホワイトはカメラ と一緒だった。二三年の初めには、彼女はミ シガン大学に移っていたが、はっきりと「報 道写真家になって、世界中の重大事件の写真 を撮りたい。そうすれば、物を書く助けにな る」と考えるようになっていた。
 まず、バ−ク−ホワイトは工業写真を撮り 始めた。それには父が印刷の機械に生涯を費 やしたことが大きく影響している。それに当 時住んでいたクリ−ヴランドで彼女の関心を 引いたのは、鉄工所や橋、ビルなどの工業製 品の目ざましい発展だった。それらを「とて も美しい」と感じたバ−ク−ホワイトは工業 製品を撮りまくった。
 その写真が、偉大な敏腕編集者ヘンリ−・ ル−スの目にとまった。彼は『タイム』を成 功させ、『フォ−チュン』という経済誌を創 刊していた。
「”マギ−”(マ−ガレット)と一緒に仕事 をしたいと思った」
 ヘンリ−・ル−スにそう思い込ませるエネ ルギ−がバ−ク−ホワイトの写真には溢れて いたのだ。
 一九三六年十一月創刊の『ライフ』の表紙 をマギ−に依頼した。
 当時ル−ズヴェルト大統領が景気刺激のた めに大恐慌を克服する大事業の一環としてモ ンタナ州に造らせたフォ−ト・ペック・ダム の写真である。マギ−はまさに新生アメリカ を描くに相応しい、力強い一カットとして注 目された。
 そんなころ、バ−ク−ホワイトの人生を変 える人物が現れた。南部の出身で、貧しい白 人(プア−・ホワイト)の姿を描き続けた作 家のア−スキン・コ−ルドウェルである。彼 女は、この作家と南部を旅しながら、『ライ フ』のための写真を撮っていたが、これまで とは違った素朴な人びととの触れ合いに大き なショックを受けた。
 コ−ルドウエルと、一九三九年三十五歳の ときに結婚した。彼との出会いによって、前 へ、前へと進む人生だけではなくて、日々の 生活の中に喜びを見つけた。
 これまでとまったく異なった世界を見たバ −ク−ホワイトが次に見たのは、第二次大戦 の前線で戦っている兵士たちの真の姿だった 。
 一九四二年十二月二十二日に、雷撃されて 救出されたバ−ク−ホワイトの体験を『ライ フ』に写真と文を合わせて掲載した。当時は 、まだ写真家が自分で文章を書くことなどは 珍しい時代だった。
 アルフレッド・ヒッチコック監督の一九四 四年の映画『救命ボ−ト』では女優タルラ・ バンクヘッドが、魚雷に撃たれたあと、化粧 品とミンクのコ−トだけで救出されるジャ− ナリストを演じたが、この映画はバ−ク−ホ ワイトの体験にヒントを得たといわれる。
 さらに、バ−ク−ホワイトはカメラマンと して戦場に飛び出していった。
 アルジェリアに無事上陸するとすぐに、バ −クホワイトはジミ−・ドゥ−リトル将軍と 出会った。すると、将軍は「魚雷攻撃を受け たのだから、戦争全部を味わってみてはどう か」と彼女に聞いた。
 彼女が喜んで同意すると、将軍は野戦電話 を取り上げ、第九七爆撃航空隊に電話をかけ た。その航空隊の指揮官がJ・ハンプトン・ アトキンソン准将だ。その後、アトキンンソ ンとバ−ク−ホワイトは恋仲になった。彼女 が戦闘作戦に同行したいと頼むと彼はイエス と応じた。
 アトキンソンは戦争中、最初にバ−ク−ホ ワイトが関係をもった相手だったが、その後 も彼女は何人かと噂になっている(彼女は尻 軽な「将軍のマットレス」というレッテルが 貼られたこともある)。
 しかし、こういった噂話が彼女を悩ますこ とはあまりなかった。
「仕事に専念するか、他人が自分について言 っていることで悩むかどちらかしかない」
 人は二者選択ができると彼女は言う。
 北アフリカでは、バ−ク−ホワイトが女と いうだけで話題になったこともある。
 彼女が排便した場所には、「バ−ク−ホワ イト、ここで排便す」と標識が立ったりした 。彼女はそんな噂や嘲笑を笑いとばすように 仕事をした。
 スタ−リンを取材したときのことである。 当時スタ−リンは神格化されていた。けっし て笑わないことでも知られていた。
「さすがの私も緊張したわ」
 彼女はある秘策をこうじた。いや、とっさ に出たといったほうが正解だ。スタ−リンは 実際に会ってみると、あまり背が高くない。 そこで、彼女は跪いて下からのアングルを狙 うことにした。
 ここまでは計算したとおりだ。
 ところが、緊張したせいで、フラッシュ・ バルブが床に一つころげ落ちた。そしてそれ を拾おうとしたら、さらにバルブが散らばっ て床に転がった。バ−ク−ホワイトはあわて て拾い集める。
 その様子を見ていたスタ−リンが微かに笑 った(ように見えた)。
 シャッタ−・チャンスをバ−ク−ホワイト は見逃さなかった。彼女の撮ったスタ−リン は他のどの写真よりも、穏やかで、笑ってい るように見える。
 インドの独立運動の指導者ガンディ−が糸 車をまわしている写真もリアリティに溢れて いる。
「非暴力主義に疲れていて、とても辛そうだ った」
 バ−ク−ホワイトはそのときの印象を語っ ている。その数時間後に、ガンディ−は暗殺 された。
 当時はまだ、写真家の多くは有名だったわ けでもなく、尊敬を集めていたわけでもなか った。あるいは、革命後のソビエトに入るこ とのできた最初の写真家としてバ−ク−ホワ イトが尊敬されるのではない。
 彼女の対象を見つめる温かい目が多くの人 びとの感動を呼ぶ。人びとがもっている温か い心を思い起こさせてくれからである。
 写真家マ−ガレット・バ−クホワイトは自 分の成功を信じて疑わない二十世紀の最初の 自覚的な女性だった。
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