エリノア・ル−ズヴェルト
(アメリカ大統領夫人、人道主義者)
Eleanor Roosevelt
1884.10.11−−1962.11.7
勝ち取る obtain
ヒラリ−・クリントンが「目標とする人物
」がエリノア・ル−ズヴェルト。
エリノア・ル−ズヴェルトは、ル−ズヴェ
ルト夫人としてよりも、世界人権宣言の起草
に重要な役割を果たした人物として知られる。
世界人権宣言は、一九四八年十二月十日に国
際連合で採択されたが、エリノアは人権委員
会の委員長として、活躍した。
第二次世界大戦後まもない、女性の指導者
がほとんどいなかった時代、エリノアの存在
は大きかった。資本主義と共産主義という東
西の対立の兆しが見えていた当時、彼女は各
国の政府代表と議論を戦わせた。
「平和は信じるだけではいけません。勝ち取
らなければなりません」
エリノアは大統領夫人としても十二年間、
夫のフランクリンを助けた。とりわけ、夫が
三十九歳で小児麻痺にかかり、大統領になっ
たときは両足が不自由だったため、文字どお
りの大統領補佐として、夫に助言をし、各国
を回り、演説したりした。
人種差別だけではなく、あらゆる差別に反
対したエリノアは女性の地位向上運動(フェ
ミニズム)でも大きな功績を残している。
「洗い物を手伝うのが恥だと考えるような男
は、育児を手伝うのも恥だと考えるでしょう
。そして、そういう男はまずいい父親にはな
れないでしょうね」
エリノア・ル−ズヴェルトは、一八八四年
にニュ−ヨ−クで生まれた。裕福な家庭に育
ったが、幸せではなかった。母親から疎んじ
られて育った。その母は、エリノアが八歳の
ときに亡くなり、祖母に育てられたが、酒飲
みの父とは会わせてもらえず、その父も十歳
のときに亡くなった。
「もう一度だけ父に会いたい」
エリノアは孤独な少女時代を送るうちに、
自分が醜くて、誰にも愛されていないと信じ
るようになっていた。
エリノアを変えたのは、十五歳のときのイ
ギリス留学である。入学したアレンズウッド
学校はロンドン郊外にある小さな女学校で、
スベスタ−女史が経営していた。この学校で
は、社会的な名誉とか、外見は重要ではなか
った。
「その代わりに、物事を自分の目で見て判断
することや、他人に救いの手をさしのべるこ
とが奨励されたのです」
エリノアがフランクリンを知ったのは、彼
女がイギリス留学から一時帰国したときのこ
とである。ダンス・パ−ティで、内気なエリ
ノアは取り残されていた。その様子を見てい
た当時ハ−ヴァ−ド大の学生で、いとこのフ
ランクリンが相手をしてくれた。
エリノアが三年間の留学生活を終えて再び
帰国したとき、ニュ−ヨ−ク州ハイドパ−ク
に近づいた列車のなかで偶然に会ったのが、
フランクリンだった。彼女は一緒の駅で降り
た。駅には車が待っていて、そこには、フラ
ンクリンの母で黒い喪服を着たサラが座って
いた。
二年前に夫を亡くしたサラは、いつまでも
黒い喪服のまま、遺産の百二十三万ドルをし
っかり握って、一人息子のフランクリンを育
てることだけに女の悲願を賭けていた。
「美しいお母様だわ」
十七歳のエリノアは、のちの義母になるサ
ラの横顔をうっとりと見ていた。
一九〇五年三月、エリノアは二十歳でフラ
ンクリンと結婚した。五年間に四人の子ども
をもうけた。
エリノアは資産家の妻として慈善事業に協
力したり、絵画や音楽、文学を楽しんだりし
ていたが、満ち足りてはいなかった。義母の
サラが生活のことごとくに口を出すのにくわ
えて、夫の女性関係にも堪えなければならな
かったからである。
サラを交えた家族会議の際、エリノアは夫
のフランクリンに好きなようにしてください
と言ったが、おそらく政治生命を考えてのこ
とだろう。その代わり、夫に愛人のル−シ−
とは二度と会わないと約束させた。
しかし、実際はル−シ−との関係は生涯続
くことになり、のちにフランクリンがジョ−
ジア州ウォ−ム・スプリングスの保養地で息
を引き取ったときも、看取ったのはル−シ−
と数人の人間だけ。妻のエリノアは夫の死に
目に遇えなかった。
エリノアとフランクリンはいわば、パ−ト
ナ−といったク−ルな関係だったが、愛情が
なかったわけではない。息子のジェ−ムズが
ある出来事を回想している。
エリノアの弟のホ−ルが亡くなったときの
ことだ。
「母は父のところに行くと、ぶっきらぼうに
こう言ったんです。『(弟の)ホ−ルが死ん
だわ』。父は母の横に寄り添うと腕をからだ
に回しました。母をやさしく抱きしめてキス
をして、母の頭を自分の胸に押し当てて慰め
ていました。そのときの優しい声がいまでも
聞こえてくるようです」
フランクリンがエリノアにつけた愛称は、
赤ん坊を意味する”バブズ”だった。結婚生
活の後半になってからは、いつも慇懃に「マ
イ・ミセス(私の奥様)」と呼んでいた。
フランクリンには、何人も愛人がいた。一
九二三年には、ミッシ−・ルアンドという二
十三歳の美人女性がフランクリンの秘書にな
った。彼女はどこに行くにもお供をした。
エリノアにも驚くべき秘密があった。
エリノアは孤独と冷えきった心を癒すため
にある女性に慰めを見い出した。二人の出会
いは一九三二年というから、フランクリン(
FDRと呼ばれた)が第三十二代アメリカ大
統領に選ばれた年だ。ニュ−ディ−ル政策を
開始し、エリノアも全面的に協力した。
エリノアの相手は、ロリ−ナ・ヒコックと
いうAP通信社の女性記者で、以後、三十年
にわたって、エリノアは二千三百通以上の手
紙をロリ−ナに送っている。
ホワイトハウスに移り住んですぐあと、エ
リノアはこう書いている。
「愛するヒック(ヒコック)・・・ああ、あ
なたをこの腕の中に抱きたい。抱きしめたく
てうずうずしているの。いただいた指輪が、
とてもよい慰めになっています。指輪を見る
たびに、私を愛してくれると思うのです」
翌年の十一月二十七日には、エリノアはこ
う綴っている。
「愛する人へ、私たちのことが話題になって
いるとお考えなのね。それなら、すくなくと
も私たちが別れ別れの淋しさを、むしろよく
耐えていると世間の人たちは感心してくれな
くてわ! 私はいつもあなたよりずっと楽観
的ですーーたぶん世間の噂などに、ほとんど
かまわないからでしょう」
エリノアは、夫の浮気への仕返しに、ホワ
イトハウスの料理人にある老女を選んだ。
彼女の作る料理は水っぽいス−プに、「弾
丸のように固い」豆料理だった。
それでも大統領は文句を言いながら食べた
のだった。
エリノアはマスコミをうまく利用し、女性
の地位向上に貢献したことでも知られる。
十二年間のファ−ストレディ時代に三百四
十八回の記者会見を開いたが、出席者は女性
に限られた。そのため当時女性記者のいなか
ったUPなどのマスコミ各社は、そのために
女性記者を雇った。女性の雇用に貢献したこ
とになる。
この定例会議は、日常のことから政治的な
議題まで多岐にわたっていた。
一九三四年には「再びホワイトハウスでワ
インを出すでしょう」という禁酒法終了をほ
のめかすニュ−スを定例記者会見で行ってい
る。
エリノアの死後、一九八〇、九〇年代、エ
リノアの人生と業績に対する新しい見方が生
まれた。特にヒラリ−・クリントンの登場に
よって、エリノアが切り開いた独立心旺盛な
ファ−ストレディというスタイルが復活した
からである。