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インディラ・ガンディ−(政治家) Indira Gandhi
1917.11.19−−1984.10.31
不死鳥 phoenix
イギリスのサッチャ−首相が「鉄の女」と
呼ばれたのに対して、人口六億を擁するイン
ドの宰相であったインディラは、「帝王」と
皮肉られたり、「女神」などとその独裁ぶり
に揶揄や喝采が送られた。
確かにインディラは卓越した政治的手腕を
発揮した。一九七一年、インドが隣国のパキ
スタンとの間に第三次印パ戦争を起こすと、
インディラはただちに電撃作戦を開始して、
わずか二週間でパキスタンを降伏に追い込ん
でいる。これは初代首相のネル−、二代目首
相のシャストリも成しえなかったことだ。
さらに、一九六六年インド連邦の首相とな
たが、七七年にはガンディ−内閣は総選挙で
決定的な敗北を喫した。インディラも選挙に
落ち、あげく裁判にかけられて収監された。
しかし、八〇年には不死鳥のように、首相の
座に返り咲くのである。
インディラ・ガンディ−は、一九一七年に
父ジャワハルラ−ル・ネル−と母カマラの間
にアラハバ−ドで生まれた。父はインド独立
後に初代の首相となった人物。
インディラは、幼年時代に父と母を次々と
獄中に奪われ、孤独で陰鬱な日々を送った。
そのために彼女は正式な教育を受けることが
できなかった。
インディラは、何事も一人で処理し、自分
で始末する習慣を身につけていった。母のカ
マラは、生来の病身にもかかわらず、独立運
動に献身していた。
幼いころのインディラにとって、投獄の運
命を甘受した母はまさに英雄であった。
「私はひそかにインドのジャンヌ・ダルクに
なろうと決意しました」
一九三六年母の死によってイギリスに渡っ
て学業を続け、四一年に帰国した。インディ
ラはネル−親子の一人娘であったが、成人し
てのちに政治家となるフェロ−ズ・ガンディ
−と四二年二月に結婚、ガンディ−姓を名乗
るようになった。
「フェロ−ズに初めて会ったのは私が十三歳
で、彼が十八歳のときでした。そのときの彼
ったら、ベトベトのキャンディを私のために
とっておいてくれた。 その三年後、私が十
六歳のときに結婚を申しこまれました」
こうしてインド独立の父、マハトマ・ガン
ディ−とは何の血縁もなかったが、「ガンデ
ィ−」という栄光に包まれた名前をもつよう
になった。もっとも、子どものころのインデ
ィラはマハトマ・ガンディ−に可愛がられて
いる。
結婚した年には、反英独立運動に参加して
逮捕され、一カ月の獄中生活を送っている。
四四年には、長男のラジヴが誕生した。
一九四七年、インド独立し、ネル−がイン
ド連邦の初代首相に就任した。が、その翌、
四八年一月三十日、ガンディ−暗殺という事
件が起きた。インディラはフェロ−ズの妻で
あり、二児の母だったが、父のネル−首相を
助けて身の回りの世話をするようになった。
インディラは首相官邸に住み、父の海外出張
にも同行するようになるにつれて、夫フェロ
−ズとの関係は冷えていった。
一九五九年二月には、インディラは国民会
議派の総裁に選出されている。だが、翌年、
夫のフェロ−ズは心臓発作に襲われて議会で
倒れた。
病室にかけつけたインディラに彼が、「愛
していたのは、他の誰でもない妻のあなただ
」と言われたのは彼女にとって大きな慰めだ
った。
当時の心境をインディラはアメリカ人の親
友の写真家で著述家のドロシ−・ノ−マンと
の書簡『インディラ・ガンディ−の手紙』で
書いている。
「今は果てしない荒野の真っ只中でひとりぽ
っちになったような気持ちです」
さらに四年後の一九六四年の五月二十七日
には最愛の父ネル−が世を去った。その後シ
ャストリ首相が第二代の首相に就任するのだ
が、在任わずか一年半の六六年一月に世を去
るのである。
インディラが連邦第三代の首相に就任した
のだが、激務が続いていて「忙しい。疲れた
」と先の友人ドロシ−に書き送っている。
ジョンソン大統領の招きで渡米し、パリで
はド・ゴ−ル、ロンドンではウィルソン、モ
スクワではコスイギンを歴訪した。同年十月
には、デリ−で非同盟三国(インド、アラブ
連合、ユ−ゴスラビア)の首脳会議を開いて
いる。インディラは、反植民地主義の旗を掲
げ、アメリカによる北ヴェトナム爆撃の無条
件停止のアピ−ルを採択して、内外に発表し
た。そのため、アメリカとインドの関係が緊
張し、インディラは親ソ的な「社会主義」路
線をとるようになっていくのである。
一九七一には、総選挙で与党会議派(イン
ディラ派)が大勝した。だが、一方ではイン
フレが進行して失業者が増大していた。農業
生産も旱魃と洪水で打撃を受け、七三年の石
油ショックと重なって社会不安を生み出して
いった。
一九七四年には大規模な反政府運動が発生
し、各地でストライキが頻発するようになっ
た。ついに七五年には、国内治安の乱れによ
って、非常事態宣言を出して野党の指導者を
次々と逮捕した。
一九七七年には、下院を解散して、三月に
総選挙を行うと布告した。威信を回復しよう
とした大きな賭だったが、インディラは大敗
を喫した。デサイ内閣が成立したが、インド
の政治混迷は続いた。与野党を問わず、内紛
と分裂が繰り返されたのである。
インディラは社会改革的な政策を押し進め
ていくうえで、与野党から次々に抵抗や反対
があった。憲法違反として告発もされた。彼
女のほうもそれに対する処置として、次男の
サンジャイなどの身内をもりたてるとともに
大キャンペ−ンを行った。その結果、汚職や
腐敗を生み、それがもとで裁判にかけられた
りした。
インド共和国が成立した直後の一九五〇年
以来、憲法の修正は三十五回行われたが、そ
の半数以上が一九六六年に始まったガンディ
政権下の九年間に成されている。いかに憲法
改正の戦いが熾烈であったかがわかろうとい
うもの。当然のことながら、議会制民主主義
を破壊するものとして攻撃された。
インディラは何かの拠り所を求めるように
息子のサンジャイを溺愛し、後継者の道を託
そうとした。だが、彼は一九八〇年六月、飛
行機の操縦を誤って墜落してしまう。彼女の
悲しみは深かったが、立ち直りも早かった。
もう一人の息子、ラジヴ・ガンディ−を政界
に登場させたのだった。
そして、インディラは一九八〇年、首相に
不死鳥のように蘇った。が、彼女は八四年に
暗殺された。偉大なガンディ−首相とインデ
ィラは同じ運命をたどったのである。インデ
ィラは非業の死を予知したかのような遺書を
したためていた。
彼女の最期の日となる、一九八四年十月三
十一日と同じ月の、ごく近い日に遺言は書か
れた。
遺言は次のように始まっている。
「私は一度も死を恐れたことはない。そんな
穏やかな気持ちだからこそ、何か遺言めいた
ものを書かざるをえないのです」
さらに遺言にはこう記されている。
「何人かが恐れ、また数人がたくらんでいる
とおり、私が変死を遂げることがあれば、そ
れは暗殺者の企てと実行による暴力でしょう
。臨終の床ではなく・・・」
繊細な文字で数枚にわたって遺言は記され
ていた。
インディラの美しい穏やかな顔が暗殺者の
弾丸を免れたのは不幸中の幸いだった。
「殉死とは何かの終わりではなく、ほんの始
まりにすぎない」
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