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グレタ・ガルボ(女優)Greta Garbo
1905.9.18−−1990.4.15
孤高 alone
日本ではこの女優のことを「神聖ガルボ帝
国」と呼んだ。
私生活を明かさず、大のマスコミ嫌い。パ
−ティも嫌い。めったに笑わず、語らず。そ
の彼女が語ると警句になった。
ガルボは語る。
「私は”一人になりたい”と言った覚えはな
いわ。ただ”そっとしておいてほしい”と言
っただけ。その違いは大きい」
「もし、何をすべきかわかっていたら人生は
とても素晴らしいものになるでしょう」
「笑みを浮かべている人でも、頑固さと恐怖
さえも隠しているものよ」
「人生のパ−トナ−として、最高の人物と結
婚すべきではない」
「もし私がとっても強かったら、間違ってい
ることを直すことができるのに」
こんな逸話もある。
当時のテニスのス−パ−スタ−、ティルデ
ンからコ−チを受けたこともある。裸で日光
浴中のところを写真に撮られたことも。
ガルボに係わるエピソ−ドは断片的で、そ
れが彼女を「神格化」させていった。
一九〇五年、スウェ−デンのストックホル
ムに生まれた。本名はグレタ・グスタフソン
。貧しい家庭で育ち、三人兄妹の末っ子だが
、しっかり者だった。
十四歳のとき、父が死んだため働きに出な
ければならず、まず裏通りの理髪店でソ−プ
レザ−・ガ−ル(ひげ剃り係)として働いた
が、これはお客の顔に石鹸の泡を立て、卑猥
な話をしながら一日を過ごす仕事だった。
次はデパ−トの帽子売り場の売り子になっ
たが、帽子のモデルとして起用されると、装
身具のPR映画やパン組合のPR映画にも出
ている。これを見たスウェ−デンの喜劇俳優
エ−リック・ペチュレルが一九二二年、自作
自演する『放浪者ペッテル』に端役で使った
。ペチュレルに勧められれて王立演劇アカデ
ミ−にかよい演技の勉強を始めたが、スウェ
−デン映画の巨匠マウリツ・スティルレルが
二三年『イェスタ・ベルリング伝説』を映画
化するときに、主役に彼女を抜擢した。
演技のできない彼女に、スティルレルは手
取り足取りして教えこんだというが、映画は
ヨ−ロッパ中で大ヒットした。翌年、今度は
ドイツの名匠G・W・パプストが『喜びなき
街』で彼女を起用した。二五年春、MGMの
製作部長ルイス・B・メイヤ−がヨ−ロッパ
映画人をハリウッドに輸入する目的で渡欧し
スティルレルと契約したが、スティルレルは
、グレタ・グスタフソンも同時に契約するこ
とを申し入れた。このときグレタ・ガルボな
る芸名もスティルレルはすでに準備していた
。
ちなみにガルボはスカンディナヴィア語で
「森の妖精」を意味する。
メイヤ−製作部長は、太っていて、とろん
とした目つきの、洗練されていない娘との契
約をやや渋ったが、それでも週給三百五十ド
ルを約束した。
MGMはヘアスタイリストからメ−キャッ
プまで徹底した変身を彼女にほどこし、『イ
バニエズの激流』に出演させた。(日本では
封切られた当時、イバニエズの『血と砂』が
評判だったためこういう題名になった)。ガ
ルボ、二十歳のときである。この監督はロマ
ン派のモンタ・ベル。二作目の『明眸罪あり
』はスティルレルの監督で始まったが、共演
者アントニオ・モレノとの折り合いが悪く、
途中で監督を下りている。スティルレル監督
はこのあとガルボ以外の作品を二本撮ったが
、スウェ−デンに帰国し、同年十一月亡くな
った。
ガルボは、それまでのハリウッドには見ら
れなかったエキゾチックな魅力で、人気スタ
−の座を獲得した。二七年、『肉体と悪魔』
でジョン・ギルバ−トとの初コンビが誕生し
た。二人のロマンスが書き立てられた。この
美男俳優はガルボに熱中した。
自分のくわえたタバコを男にわたすシ−ン
は、斬新で”魔性の女”を印象づけた。
ギルバ−トはガルボに失恋した腹いせに、
女優のルペ・ペレスにちょっかいを出した。
ペレスは自殺未遂した。いずれにしても、こ
の作品でガルボは地位を確立し、週給は六百
ドルから五千ドルにはねあがった。
一九三〇年、ト−キ−第一作『アンナ・ク
リスティ』に出演、「ヴィスキ−のシンシャ
−・エ−ル割り(傍点ルビ)をちょうだい」
というのが第一声だった。強いスウェ−デン
訛りだが、ハスキ−・ヴォイスは独特の魅力
を発揮した。だが、正確な英語を話すことが
できず、もっぱら外国ネタのヒロインをつと
めなければならなかった。私生活では、前年
に『接吻』で共演した年下のリュ−・エア−
ズとのロマンスも囁かれたが、これも発展は
しなかった。
三三年に、MGMと契約を更新し、『クリ
スチナ女王』では、一本三十万ドルという空
前のギャランティを得るようになる。『椿姫
』(三七年)の演技は高く評価され、ニュ−
ヨ−ク映画批評家賞の女優賞を獲得したが、
アカデミ−賞は取れなかった。
その秋、名指揮者レオポルド・ストコフス
キ−(当時五十五歳)から求愛された。二人
は仲良く散歩をしたり、ナポリでデ−トをし
たりしたが、これも結局は大きな発展をしな
かった。
『ニノチカ』(三九年)で、MGMはガルボ
のイメ−ジチェンジを計った。これまでのよ
うな謎に包まれた女性ではなかった。恋に落
ちたガルボは美声をあげて、いわゆるガルボ
・スマイルも見せた。「ガルボ笑う」といわ
れた。
さらに『奥様は顔が二つ』に出演したが、
これがガルボの最後の作品となった。二十五
作の映画に出演し、三十六歳、まさに絶頂期
にすべてをなげうってしまったのである。そ
の後も何度かガルボ復活の話はあった。本人
も決意をしたこともあったが、実現はしなか
った。
それにしてもなぜ、ガルボは引退したのか
?
まず、最後の作品、『奥様は顔が二つ』は
不評だった。これは真面目なスキ−指導員の
ヒロインが、自分と双生児のセクシ−な妹に
なって夫の浮気を邪魔するというハリウッド
・コメディだ。あまりにも、ガルボのイメ−
ジを破壊しすぎた。ガルボ自身もこれにショ
ックを受けた。アメリカナイズされたガルボ
を大衆が受け入れなかった。
ガルボも不安になった。もう大衆を受け入
れる力が自分にはないのではないかと思いこ
んで引退した。
もっと単純に復活の時期をのがしてしまっ
たと考えたほうがいいかもしれない。
それともやはり、もっと神秘的な理由があ
ったのだろうか? ガルボ神話と実像の差に
堪えきれなくなったのかもしれない。
一九四一年ごろ、ビリ−・ワイルダ−監督
は、ロデオ・ドライヴをジョギングしている
ガルボに出会った。
「マティニをいかがですか?」とワイルダ−
は自宅に彼女を誘った。
「喜んで」と彼女は憂鬱そうに答えた。
ガルボはマティニをいっきに飲み干した。
「何か演じたい役は?」とワイルダ−が聞い
た。
「ええ、道化(クラウン)の役がいいわ」
クラウンなら、ずっとマスクをしていて、
はずさなくていいからとガルボは答えた。
ガルボは自分が老けて見えることを気にし
ていたのだ。
その後、ガルボが映画に戻ることはなかっ
た。
引退後、ガルボは誰とも結婚しなかった。
ニュ−ヨ−クの東五十二番街にあるアパ−ト
でフランスの家具や印象派の絵画などに囲ま
れて優雅な一人暮らしを続けた。ほとんどの
時間を自分だけでできることに費やしてきた
。
孤独を愛したから?
その疑問にはごく当たり前に生きたいから
と彼女は答えたに違いない。
『クリスチナ女王』のラストは、恋人の亡骸
とともに船出するシ−ンだが、彼女はこうつ
ぶやくのだ。
「風は私たちとともに一緒ですわ」
一九九九年六月十六日、ガルボの遺骨はや
っとスウェ−デンに戻り、埋葬された。親類
だけが立ち会った。
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