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マリ−・ローランサン(画家)
Marie Laurencin
1883.10.3−−1956.6.8
牡鹿 stag
「捨てられた女よりもっと哀れなのは/よる
べない女です/よるべない女よりももっと哀
れなのは/追われた女です/追われた女より
ももっと哀れなのは死んだ女です/死んだ女
よりもっと哀れなのは/忘れられた女です」
(『鎮静剤』の一部 堀口大學訳)
こんな詩を綴った画家マリー・ローランサ
ンは、二十世紀初頭、フランスの美しき時代
(ベル・エポック)に生きた。
パリのモンマルトルにある洗濯船という名
のアパート。ここにはピカソやブラック、ヴ
ァン・ドンゲンなど貧しいが才能に溢れた天
才たちが住んでいた。多くの芸術家たちも集
まってきた。
あるとき、ピカソは友人の一人で詩人のア
ポリネールに言った。
「昨夜、きみのフィアンセに会ったよ」
「どういう意味だい?」
「憂いを含んだ面立ちで、そのくせ男を苦し
めるような宿命をもった女性なんだ」
アポリネールはピカソの個展を見に画廊に
行き、そこで若い女性を紹介される。
ほっそりとして澄んだ水晶のような肌に、
透き通った瞳をもった女性ーーまさに彼が求
めていたフィアンセに出会うのである。
一九〇七年、ローランサンは二十四歳、新
鋭の画家と前衛派の詩人とが激しい恋に落ち
るのに時間はかからなかった。
詩人は愛しい女性のことを友人に語ってい
る。
「私に会いにくるとき、縄跳びをしながら庭
を横切り、それからピヨン、ピョンと跳びな
がら階段を昇るんだ、少女のようにね」
一九〇八年に、ローランサン母子がシャペ
ル大通りからラ・フォンテーヌ街三十二番地
に引っ越すと、アポリネールもすぐ近くに移
り住んだ。
アポリネールは毎日のように恋人に詩を贈
った。
画家は『アポリネールとその友人たち』を
描いた(ピカソやローランサン自身も描かれ
ている。その後アポリネ−ルは三十八歳でこ
の世を去るが、その日までこの絵とともに暮
らした)。
ローランサンは芸術家たちに霊感を与える
女神として祝福された。才能豊かな二人の恋
は永遠に続くかに思われたが、激しい個性と
鋭い感性のぶつかり合いは亀裂を生んだ。
「別れるべきだわ」
「いや、きみが必要だ」
そんな折り、二人の別離を決定づける出来
事が起きた。
一九一一年、アポリネールがルーヴル美術
館で起きた『モナ・リザ』盗難事件(八月二
十二日)の共犯容疑で逮捕(九月七日)され
た。疑いは晴れたが、この事件でアポリネ−
ルとロ−ランサンの二人の関係はぎくしゃく
したものになり、ついに五年間の燃えるよう
な愛は終焉を迎える。
アポリネールはこう詠った。
「ミラボー橋の下をセーヌが流れ/われらの
恋が流れる−−」
やがて彼女は、淡い紅色、青、緑の色調を
使って、狐、鳥、馬などを添景として配し、
女性の姿をとらえる幻想的な画風を確立する
のである。
先駆的女性芸術家マリー=メラニー・ロー
ランサンは一八八三年十月三十一日、パリに
生まれた。
母ポーリーヌは年上の妻子ある代議士と付
き合って、未婚のまま娘マリーを産んだ。
少女は読書や絵を描くのが好きで、いつし
か画家になるのを夢見ていた。
芸術家たちの住まいであり、共同アトリエ
の洗濯船に絵をもちこんだのが、画家として
の第一歩だった。
三十歳のとき、最愛の母を亡くした。
「私を愛してくれなかったママ。でも、私は
大好きでした」
母の死、その孤独に耐えきれずロ−ランサ
ンは三十一歳のときに結婚をする。彼女が相
手に選んだのは、ドイツ貴族で自称画家のオ
ットー・フォン・ヴェッチェンだ。
結婚式は、一九一四年六月二十八日に行わ
れたが、その六日後にドイツはフランスに宣
戦布告をして、第一次世界大戦が勃発する。
ドイツ国籍になっていた彼女は、故郷フラン
スを追われた。
一九一四年九月、ロ−ランサンはスペイン
のマドリ−ドに亡命。待っていたものは、ア
ポリネールとは正反対、ガサツで、女性の心
を解さない夫との地獄の日々だった。ローラ
ンサンの失意を慰めたのは、パリに住む人気
デザイナー、ポール・ポワレの妹のニコル・
グルーとの文通である。
ニコルは生涯の親友になったが、この交流
はローランサンの同性愛に対する目覚めをも
たらした。その後も、ローランサンはレスビ
アン的な傾向に走り、何人もの女性の恋人を
もっている(肉体の快楽よりも、官能的な愛
撫や接触を好んだ)。
一方で、彼女はフランス将校として戦場に
いるかつての恋人、アポリネールのことが頭
から離れなかった。
一九一五年から六年にかけて、アポリネ−
ルは『追われる美女』『見つかった捲毛』『
鳩の拒絶』『露営の火』『くやんでいるグラ
ナダ娘たち』など新しい作品が出るたびにロ
−ランサンのところに送ってきた。彼女もか
かさず、返事を書いた。
一九一六年、ベリ−=オ=バック近郊、ビ
ュットの森の塹壕で、ギョ−ム・アポリネ−
ル少尉は重症を負う。この知らせもロ−ラン
サンに届いた。
一九一八年五月二日、アポリネ−ルは美し
い赤毛の女、ジャクリ−ヌ・コルブと結婚し
た。自分は自分は結婚している身でありなが
ら、この報せに打撃を受けた。ロ−ランサン
は「詩人は永遠に自分のものだ」と信じてい
たのだ。ジャクリ−ヌ・アポリネ−ルは永遠
に自分のライバルになった。
その年の十一月十日、ロ−ランサンは二通
の電報を受け取った。危篤という報せと死亡
したという報せ。スペイン風邪による肺充血
だった。
ロ−ランサンにとって、スペインでの五年
間は、哀しく辛い煉獄だった。
「パリに戻りたい」
募る思いをつかの間の恋で紛らわせたこと
もある。
「犬と愛する人がいない生活は私には考えら
れない」
恋はいつも彼女にとって生きる証しであっ
た。
ローランサンは、ようやくフランス永住の
許可を得て、一九二一年、美の都パリに戻っ
てきた。
翌年、三十九歳のときに、夫とは正式に離
婚した。
肖像画や舞台芸術など、新しい表現分野に
手を染め始めたのもこのころだ。たちまちロ
−ランサンは時代のスタ−になった。ローラ
ンサンの肖像画を自宅に飾ることは、パリ社
交界の流行になった。この時代は、アネー・
ル・フォル「狂乱の歳月」といわれる。
シャネルの肖像画を描いて贈ったが、シャ
ネルは「私に似ていない」と送り返してきた
。
ローランサンは言い返した。
「シャネルはいい娘だけど、オーヴェルニュ
の田舎娘だから」
一九五六年、ローランサンは養女に看取ら
れて亡くなった。七十二歳。亡骸は純白のド
レスに包まれ、手には赤いバラ、遺言によっ
て胸には若き日にアポリネールから送られた
手紙の束が載せられていた。
作家のジャン・コクトーは彼女をいつも何
かに脅えているような「可愛い牝鹿」と呼ん
だ。男っぽいものは徹底的に排してきた。そ
れを理解できた唯一の男がアポリネールであ
ったのかもしれない。
繊細な詩人は、才能ある画家をもっとも理
解し、深く愛した。ともに私生児で哀しみも
わかちあってきた。
しかし、自己の生き方を貫いた画家は他者
を苦しめ、自分をも傷つけていく。お互いに
真実の愛を求め続けながら、ますます孤独に
陥るのだった。
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