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ナンシ−・キュナ−ド(編集者)
Nancy Cunard

1896.3.10−−1965.3.16

錯乱 ditraction

 白人による黒人文化に関する金字塔『ニグ ロ』の著者として知られるナンシ−・キュナ −ドは、クイ−ン・エリザベス号を所有する 名門のキュナ−ド汽船の令嬢として、一八九 六年三月十日イギリスのレスタ−シャ−に生 まれた。
 父はイギリスの準男爵、母は夫より二十歳 も年下のアメリカ人。「母になるのはうんざ りだった」と述べているほど、母性本能が欠 如していた。当時の上流社会の習慣にならっ て、子どもの世話は子守や乳母、家庭教師た ちにまかせきり。両親はほとんど家にいなか った。
 父のサ−・ベイチ−は戸外のスポ−ツに出 かけ、母はロンドンに行ったり、海外に旅行 したり、あるいは他のカントリ−ハウスを訪 ねたりしていた。
 孤独な少女時代を送ったのち、キュナ−ド はロンドンに移った。これも慣例に従ったも ので、名門ミス・ウルフ校で学び、その後、 ミュンヘンでドイツ語の勉強をした。
 二十歳のとき、三歳年上のシドニ−・フェ アバ−ンという若くて将来有望な士官と結婚 。母のレディ・キュナ−ドはこの結婚に賛成 ではなかった。家を出て、自分自身の人生を 築きたかった。結婚生活は一年八カ月、「結 婚していたときが人生で最も不幸だった」と 友人に語っている。
 キュナ−ドは読書好きで詩人志望、夫の趣 味はスポ−ツとブリッジ。二人は、始めから 何もかも違っていた。イギリスを離れる決心 をして、一九二〇年一月七日、パリに旅立っ た。パリでの生活こそが自分らしく生きる始 まりだった。
 この当時の二十年代の女性のボヘミアン的 なイメ−ジにぴったりの生き方をしていた。 髪を短く切り、ショ−トスカ−トをはき、人 目も気にせず、煙草をくゆらせ、酒におぼれ 、何人もの男と情事を重ねた。
 ナンシ−・キュナ−ドに会った人は、はっ と息を飲む彼女の容姿に魅了された。輝くブ ウ−の眼、短い金髪、透きとおる白い肌、細 くしなやかなからだ、踊るような歩き方。声 も驚くほど細かった。
 マイケル・ア−レンやオルダス・ハクスリ −、当代一流の小説家が恋をした。マイケル ・ア−レンの最初の長編小説『海賊』に登場 するヒロインのヴァ−ジニアと母のレディ・ カ−ディナルはナンシ−と母を連想させる。 大ベストセラ−となった『グリ−ン・ハット 』のヒロイン、アイリス・マ−チも、ナンシ −自身を書いたとされている。アイリスは情 事に耽る女として登場する。
『グリ−ン・ハット』は一九二五年に、ブロ −ドウェイの舞台にのり、同じ年のロンドン 公演ではタルラ・バックヘッドがアイリスを 演じた。
 一九二〇年代初めのパリで、外国からやっ てきた多くの女性たちと親しくなった。その なかにはシェイクスピア・アンド・カンパニ −書店主のシルヴィア・ビ−チ、現代美術の パトロネスになるペギ−・グッゲンハイムな どがいた。
 それまでキュナ−ドにとって、パリは通過 するだけの都市だったが、二三年からはパリ の住民となった。この時期に作家のトリスタ ン・ツァラとの交友関係が生まれている。
 ツァラはル−マニア生まれの作家で偶像破 壊者、ダダの発明者だ。ツァラは、小柄で色 が浅黒く、溌剌としていた。親しくなった二 人は飲んだり、笑ったりしながらパ−ティに 出席した。
 一九二四年に若くて才能溢れた写真家、マ ン・レイがボ−モン伯爵の舞踏会に出かける 二人の写真を撮っている。ツァラはひざまず いてキュナナ−ドの手に接吻しており、銀色 のパンツス−ツを着たナンシ−は仮面をつけ 、父親の古いトップハットを被っている。
 ツァラの手引きで、パリのもっとも新しい 挑発的なアヴァンギャルド運動に参加した。 その運動はダダからシュルレアリスムへと変 わってゆく。
 一九二八年の夏の終わり、キュナ−ドはア ラゴンを連れてヴェネツィアに行った。
 アラゴンは一文なしでもあり、冷たい仕打 ちに我慢ができなくなった。
「パリに帰る。自殺してやる」
「勝手にしなさい。どうせ戻ってくるにきま っているんだから。本当に死ぬ勇気があるか どうか疑わしものだ」
 アラゴンは、奇跡的に手遅れになる寸前で 発見された。
 ヴェネツィアではキュナ−ドは従兄弟のエ ドワ−ドとホテル・ルナに出かけ、夕食をと ってダンスを踊っていた。その晩、アメリカ の黒人ジャズ・グル−プが演奏した。そのな かに、ヘンリ−・クラウダ−というピアニス トもいた。
 キュナ−ドとエドワ−ドは演奏に感動し、 グル−プをテ−ブルに呼んで酒をおごった。 これがきっかけでナンシ−の人生でもっとも 重要な関係が始まる。
 それまでのキュナ−ドは自由な生き方こそ してきたが、上流社会のボヘミアンという領 域から逸脱することはなかった。
 一九二八年、クラウダ−は三十代の後半か 四十代の初めで、キュナ−ドよりも、八歳か ら十歳年上。身長は彼女と同じくらいか、そ れよりやや高く、がっしりした体格。前髪は 後退していたが、好感がもてる端正な顔立ち 。インディアンの血を引いているせいか高い 頬骨と東洋風の切れ長の眼で、肌は赤銅色だ 。
 キュナ−ドはクラウダ−に一人で夕食にこ ないかと電話で誘った。彼は迷ったが、誘い を受けた。
 当時の上流社会では白人女性と黒人男性が 関係をもつというのは、たいへんなスキャン ダルだった。
 一九三〇年には、母レディ・キュナ−ドと 決裂した。母はナンシ−の恋人が黒人である ことに愕然としたのだった。
 一九三一年の暮れから、三四年の春まで、 黒人の政治と文化に関するアンソロジ−『ニ グロ』を作ることに没頭した。そのためにニ ュ−ヨ−クのハ−レムに住んだ。地元のマス コミはキュナ−ドの行動を大きく報じた。
「伝統を破る行為で、母親から相続権を剥奪 された、有名なイギリス大手汽船会社の女相 続人がハ−レムの黒人地域に居を定める」
 ハ−レムが本当に活気づくのは、夜になっ てからだ。キュナ−ドもレストラン、ダンス ホ−ル、キャバレ−、会員制のパ−ティなど に顔を出した。
 一九三四年二月十五日に、ついに『ニグロ 』が出版された。『ニグロ』は大著で、八百 五十五ペ−ジ、千部出版された。およそ百五 十人が二百五十編ほどの原稿を寄せた。
「まるで肥料商人に東洋の絨毯を売るような もの」
『ニグロ』の出版元を探すのは至難の技だっ た。詩人で急進左翼の批評家、エッジェル・ リックワ−ドと知りあい、彼の口利きで、ウ ィッシャ−・アンド・カンパニ−が出版に同 意してくれた。
 この本で、キュナ−ドは人種問題の解決は 共産主義しかないと結論づけた。
 現代では『ニグロ』は黒人問題を扱った著 作として歴史的な価値をもっている。
 さらにナンシ−はスペイン戦争には、特派 員として現地に駆けつけた。共和国側を支持 して報道活動を続けたが、深い絶望感を味わ った。
『ニグロ』を通じて知り合ったアフリカ人T ・K・ウチャイから手紙を受け取った。
 彼は一九三三年、ポ−ト・ハ−コ−トで自 分たちの学校を組織した。彼らの学校の第一 号は彼女名前にちなんでキュ−ナディア校を 命名された。
 晩年は、酒と不規則な生活で、精神に異常 をきたして、精神病院に入れられた。
 一九六五年三月十六日、ナンシ−・キュナ −ドは誰にも看取られることなく息をひきと った。

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