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ゼルダ・フィッツジェラルド(作家)
Zelda Fitzgerald
1900.7.24−−1948.3.10
狂気 craziness
一九二〇年代(ロ−リング・トゥエンティ
)の美少女こそゼルダであった。その生涯も
揺れ続けていた。死ぬまで二十代の若さを保
ち続けたという意味でも。
ジェズ・エイジのフラッパ−、ゼルダは起
伏に乏しいからだつきだったが、多くの男た
ちを惹きつけた。
ゼルダはアラバマ州モントゴメリ−で、セ
イヤ−家の六番目の子として生まれた。母の
ミニ−はすでに四十歳、父のセイヤ−は判事
で四十二歳だった。読書家だった母は、赤ん
坊の名を小説のジプシ−の女王からとって、
ゼルダとした。
末っ子で、ブロンドの髪に、青い眼をした
娘は我がままいっぱいに育てられた。父から
も母からも「ベイビ−」と呼ばれて溺愛され
た。
のちに少女時代のことを聞かれたゼルダは
こう答えている。
「私はたいへんな自信家で、天上天下、ひと
さまのことなんかまったく眼中になく、ひた
すら我が道を闊歩してた。劣等感とか、羞恥
心とか、人を疑う心とか、そんなものはひと
かけらもなかった」
一九一六年の春、モントゴメリ−市の公会
堂でバレエのリサイタルが行われた。十六歳
のゼルダはソロを踊った。踊りが終わると若
者たちは少女のまわりに群がった。その夜か
ら彼女は社交界の華となった。
ただのはねっかえり娘ではないことを証明
したのである。
一九一七年の夏、アメリカは第一次世界大
戦に参戦した。何千という兵士や飛行士が町
のすぐ外にあるキャンプ・シェリダンやテイ
ラ−飛行基地で訓練を受けるためにやってき
た。セイヤ−家のような名士の家では、兵士
たちを迎えてのパ−ティが行われる。ゼルダ
は若い兵士たちのアイドルだった。
一九一八年七月、卒業式から一カ月たった
ばかりのころ、ゼルダはカントリ−・クラブ
で初めてスコット・フィッツジェラルドに会
った。フィッツジェラルド中尉は、プリンス
トン大学を中退して軍隊に入隊。大学在学中
から詩や小説を書いて、文才を認められてい
た。
スコットは背は高くなかったが、ブルック
スブラザ−ズ製の士官服がとても似合ってい
た。ハンサムな青年とゼルダは最初から互い
に魅かれるものがあった。
やがてスコットはゼルダにプロポ−ズした
が、彼女は躊躇った。彼が作家として成功す
るかどうかわからないし、まだ他の男たちに
も関心があった。
一九一九年二月、スコットは小説家と心に
決めて、ニュ−ヨ−クに向かい、二人は文通
で心を通わせた。
スコットは母の指輪を婚約の指輪を贈る手
筈を整え、ゼルダに電報を打った。
「愛する人へ−−今日、指輪が届いたら月曜
日に送るよ。愛している。そしてそれだけ愛
しているか、ふたりで過ごすはずの土曜日の
夜に伝えたかった。家族を僕のプレゼントで
驚かせないでね」(『プロポ−ズ・スト−リ
−』)
翌二〇年、ゼルダ二十歳、スコット二十三
歳、「狂乱の一九二〇年代」にふさわしいカ
ップルが誕生した。巷にはジャズが溢れ、モ
ダンガ−ルたちが街を闊歩し、自動車が馬車
を追放した。スコットは、「ジャズ・エイジ
」と呼ばれるこの世代の若者たちを強烈に描
き出し、彼らの教祖的な存在となった。そし
てスコットの妻ゼルダは自由で奔放な「フラ
ッパ−」の代表と呼ばれた。
二人はホテル住まいをし、パ−ティに明け
暮れた。そんななかでスコットは『楽園のこ
ちら側』『美しく呪われた人』などの作品を
書いていく。社交界の華、自由奔放に生き、
男の運命を狂わせる女。それはそのままゼル
ダを思わせた。
結婚の翌年、ゼルダはスコッティという女
の子を産んでいる。このころから、ゼルダは
自分でも執筆活動を始めた。
『ニュ−ヨ−ク・トリビュ−ン』紙の書評欄
に、スコットの『美しく呪われた人』(一九
二二年三月出版)の書評を依頼され、結婚前
の名前で書いた。『メトロポリタン・マガジ
ン』に、「フラッパ−を讃える」を書いてい
る。
一九二四年、フィッツジェラルド夫妻はヨ
−ロッパにわたった。
パリで、画家のピカソ、作家のヘミングウ
ェイなどと知りあった。ゼルダが嫉妬するほ
どヘミングウェイに惚れこみ、当時まだ無名
だったヘミングウェイを出版社に売りこんで
やったのも、スコットだった。
ヘミングウェイとゼルダは敵対し合ってい
た。ヘミングウェイは常日頃から、ゼルダは
正気でなきと思っていた。スコットに酒を飲
ませ、才能ある夫を仕事から引き離し、自分
に振り向かせたいという嫉妬心から、茶番劇
を演じているといってゼルダを責めた。ゼル
ダは、ヘミングウェイを”にせもの””おか
ま”そして”筋金入りの男根主義者”だと決
めつけた。
のちにスコットの最高傑作となる『偉大な
るギャツビ−』の執筆もはかどっていた。だ
が、静かな生活に退屈しはじめてたとき、災
いが訪れた。この年の夏、ゼルダは生きのい
いフランス人パイロット、エドゥア−ル・ジ
ョ−ザンと遊び歩くようになった。彼女がジ
ョ−ザンと寝たかは定かではないが、この一
件はすでに不安定だった結婚生活に深刻な緊
張をもたらした。また、『偉大なるギャツビ
−』の主人公ジェイ・ギャツビ−がデイジ−
に抱くロマンティックな執着に、悲劇的な色
彩を与えたことも疑う余地はない。
奇妙なことに、スコットはその恋の行方を
楽しんでいた。ゼルダは悩み、苦しんだすえ
に、大量の睡眠薬を飲んで、自殺を図ったの
だ。未遂に終わったことで、恋愛事件も終わ
りを遂げたのだった。
ゼルダの危険な行動のなかで特に有名なの
は、一九二六年のある夜の出来事だ。
地中海を見下ろす丘の上のオ−プンフェで
ディナ−ととっていると、偶然イサドラ・ダ
ンカンと出くわした。この伝説のダンサ−と
スコットがいちゃついているのに腹を立てた
ゼルダは、突然カフェの石造りのテラスから
身を投げた。下の岩肌が落下を防いだため、
軽いケガですんだ。
一九二六年十二月、フィッツジェラルド夫
妻はアメリカに一時帰国した。アメリカに戻
ってくると、今度はスコットが恋をした。相
手は十七歳のロイス・モ−ランという女優で
ある。
「なぜ、あんな小娘なんかと」
ゼルダが詰問した。
すると、スコットは、「彼女には才能があ
るし、それに自分の力で生きている」そう答
えたのだった。ゼルダは愕然とした。自分だ
ってやればできる。そう思うと悔しくてたま
らない。かつて自分はいつも周囲から注目を
浴びるスタ−的な存在だった。ところが、ス
コットと結婚してからは、自分の思うように
いっていない。
なんとか仕事をすることで精神の安定を計
りたいと考えたゼルダはスコットとの生活を
色濃く反映させた『パ−クアベニュ−小景』
『八年間を顧みて』など自作の短編を発表し
た。
だが、ゼルダは精神を病んでいた。当初、
セルダに下された診断は過労だったが、入退
院を繰り返すまで、悪化した。
しかも、ゼルダが小説を書くことをスコッ
トは喜ばなかった。
「私はプロの作家だから、二人の生活を描く
権利があるんだ」
とスコットは言った。
ヨ−ロッパを旅行から帰国したフィツジェ
ラルド夫妻は、一九三一年九月、アメリカに
永住することにした。
スコットはまもなくハリウッドに戻り、金
を儲けてよりよい暮らしを手に入れようとし
た。翌年の二月、ゼルダは二度目の神経衰弱
に陥ったため、施設に入らなければならなく
なった。病院からゼルダは、詰問する手紙、
疑惑の手紙、激しい手紙、愛情の手紙、そし
て支離滅裂な手紙をスコットに送りつけてい
る。
スコットも疲れ果てていた。このころにな
ると、大不況の波がアメリカを襲ったため、
スコットの本も売れなくなり、時代はもはや
彼を必要としなくなっていた(かつて、スコ
ットの小説は一編、二万ドルの原稿料だった
が、『エスクワイア』に書いたエッセイ『ク
ラップアップ』は五百ドル。ちなみにこの表
題は、”お手上げ”の意味がある)。
スコットはゴシップ・コラムニスト、シ−
ラ・グレアムと恋愛関係に陥り、酒に溺れる
日々が続いた。精神の脆弱なゼルダを気づか
って二人の関係は秘密にしていたが、ロサン
ゼルスでは有名なカップルだった。
一九四〇年十二月二十一日に、心臓を病ん
でいたスコットは、シ−ラと住んでいたハリ
ウッドのアパ−トで急死した。四十四歳だっ
た。
ゼルダはモンゴメリ−の実家で世話を受け
ながら、入退院を繰り返していたが、スコッ
トが亡くなってから、八年後の一九四八年三
月十日に、アラバマ州ハイランド病院の深夜
の火災で焼死。身元は遺体の下にあったスリ
ッパによって確認された。
そこからメリ−ランドに運ばれてロックヴ
ィル・ユニオン・セメタリ−に埋葬された。
パンジ−で作られた二つの花輪がスコットと
ゼルダの柩の上に置かれた。
「何もすることがない。ただ景色を見て食事
をするだけ。こんなことになるなんて誰が想
像しただろう。私は景色を見ることなんて好
きじゃないのに」
実生活で崩壊(クラップアップ)した作家
と最後まで彼を愛し続けて精神的に崩壊した
女性は、いま静かに眠っている。
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