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宇野千代(作家)

1897.11.28(明治30)−−1996.6.10(平成8)

脂粉 rouge&powder

「わたし、泥棒以外なんでもやったわ」
 宇野千代は、積極的な生き方を貫いて、九 十八歳で亡くなる瞬間まで、走り続けた。
 平成七年に出版された『私何だか死なない ような気がするんですよ』は、生き方を自然 に綴ったエッセイ集として多くの人びとの共 感を呼んだ。
 晩年は、ほとんど耳が聞こえなくなってい たが、それでもかくしゃくたるもので、執筆 の依頼に応じた。最期まで旺盛な好奇心と創 作意欲は失わなかった。
 宇野千代は、明治三十年十一月二十八日、 山口県岩国市に生まれた。岩国市高女を卒業 後、代用教員、事務員などを経て、従兄の藤 村忠を頼って京都に行き同棲生活を始めたの が、十九歳のときである。
 父は放蕩生活を送り、突然、亡くなった。 翌年、藤村忠が東京帝国大学入学を機に、一 緒に上京して、雑誌社の事務、家庭教師、給 仕などをした。
 千代が本郷にあった燕楽軒という西洋料理 店で働いていたときのこと。この店は中央公 論社の真向かいにあったので、売出し中の文 士たちがたむろしていた。それが、いつしか 千代目当てに集まってくるようになった。
 ある日、「僕の友人がきみに興味をもって いるので会ってやってくれないか」とお客の 一人から言われた。
 千代が指定された東大赤門前に行くと、一 人の青年がいた。店で何回か会った青年で、 当時、作家として売出し中の今東光だった。 彼は三十二歳という若さで出家し、僧侶のイ メ−ジが一般には強いが、そのころは髪もふ さふさした美少年だった。どことなく千代の 初恋の人に似ていた。毎晩のように、店が終 わと、駕籠町の下宿まで送ってくれた。
(そのとき、彼の友人として伝えにきたのは 、のちに千代と結婚することになる画家東郷 青児である)。
 大正八年、千代が二十二歳のときに藤村忠 と結婚する。翌年、大正九年に、夫忠が北海 道拓殖銀行に就職。夫とともに、赴任先の札 幌に行って暮らすことになった。
 大正十年、『時事新報』の懸賞短編小説に 千代の書いた処女作『脂粉の顔』が一等当選 する。
 大正十一年、四月十二日、札幌より上京。 『墓を発く』の原稿料三百六十円を受取り、 岩国に帰り、再び上京した。
 見送ってくれる夫に「すぐ戻ってくるから 」と言った。着のみ着のままで、出かけたの だが、ふたたび千代が夫の元に戻ることはな かった。
 そのとき千代の心を揺さぶったのは、作家 の尾崎士郎である。彼は千代が応募した『時 事新報』の懸賞短編小説の二等に当選してい た。
「この人があの新聞小説の懸賞小説で二等に なった尾崎士郎か」と千代は特別な感情をも った。
 この最初の出会いから、尾崎に心を捕らわ れた。彼は吃音だったが、彼が一言話すたび に、千代は自分も手伝ってやりたいと思うほ ど、心を捕らわれていたのだ。
「田舎娘が、一眼であんちゃんにいかれたよ うなたわいもない状態」
 会ったその日から東京・本郷菊富士ホテル の『竹の間』で暮らし始めた。
 夫との協議離婚が成立したのは、家を出て から二年後の大正十三年四月のことだ。
 そのころから、創作活動を始め、『中央公 論』四月号に『夕飯』を発表して注目された 。
 大正十五年二月、尾崎士郎との婚姻届けを 提出した。二人は傍がうらやむほど仲が良か った。お互いを「サム公」「セン公」と呼ん だ。士郎の士はサムライと読むので、サム公 、千代の千はセンなので、セン公。
 千代は当時を振り返る。
「まだお互いに貧しく、あちこちの酒屋に頭 をさげて借りに行き、お金のないことが少し も苦にならなかった。むしろ誇らしく、幸福 感を覚えた」
 しかし二人は愛しあっていたが、うまくい かなくなった。どうしてなのか、千代にもわ からない。
 うまくいかなくなると千代は、自分から家 を出てしまう。逃げるというのではなくて、 相手に気まずい思いをさせたくないという気 持ちからなのだ。一時頭を冷やしたほうかい いと考えて、一人湯ケ島にいた。家に戻って みると尾崎はいなかった。
 一人きりになった千代は泣いた。
「泣くだけ泣いたら、もうすっきりとしてし まう」というのが千代の気質である。
 昭和三年、尾崎の家を出て、千代は仕事場 を大森海岸の三浩館、鈴ケ森のポプラハウス にした。
 昭和五年、尾崎と離婚。
 そして小説の取材のために東郷青児を訪れ る。東郷は、パリ帰りの新進の画家、愛人と 心中未遂を起こした直後だった。
 千代が会った東郷は、まだ首に包帯を巻い ていた。二人はその日のうちに男女の関係に なった。心中事件の血糊のついたふとんの上 で二人は愛しあったのだ。
「正常の人間ならば、おびえて逃げだしたと 思いますのに、逆にぴったっとそこに居つく 気になった」
(『思いのままに生きて』)
 東郷の絵の買い手を求めて関西へ旅をした こともある。からだを張っても絵を売ろうと した。そのことが東郷を傷つけることになろ うとも、こうと思ったら千代はいつもまっし ぐらで後先は考えない。
 そして東郷との十年間にわたって暮らした 体験をもとに書かれたのが小説『色ざんげ』 である。
 また、千代は新人作家、北原武夫の小説『 悪徳の街』を読んで感動した。
 昭和九年、千代は三十七歳のとき、東郷と 離婚した。昭和十一年には、スタイル社を創 立する。
「いつものことだが、私は男と別れたあと、 これが失恋した女のすることかと思われるほ ど、とんでもないことをし始める」
(『思いのままに生きて』)
 のちに北原が雑誌『スタイル』の編集に加 わり(当時の北原は東京新聞の記者)、女性 向けのこの服飾雑誌はブ−ムを呼んだ。(表 紙はパリから帰ったばかりのフジタが描いた )。
 昭和十四年には、北原と正式に結婚した。 知り合って一年ぐらいしたころに北原は「結 婚しよう」と言った。だが、千代は「いやだ 」と思った。北原は千代より十歳年下。年上 女房としての引け目を感じたくないと思った からである。
 だが、結婚を承諾した。北原の端正な顔だ ちと才能に惚れ込んだからだ。
 戦後しばらくは、スタイル社が順調だった が、放漫経営がたたり、脱税を摘発される。 そしてついに倒産。
 しかし、作家宇野千代は昭和二十一年から 十年の歳月をかけた名作『おはん』を発表。 野間文芸賞、女流文学賞などの賞を獲得し、 高い評価を得た。
 生まれて初めて最初から「こういう小説を 書こう」と思って構想を練ったのだと千代は 書いている。
 おはんとおかよという二人の女性の間を揺 れ動く男の心情を、男の告白という文体でみ ごとに描いた。
「この小説のモデルは私自身であるような気 がします」と千代は語っている。
 昭和三十九年に、北原と離婚。その年に、 尾崎が亡くなっている。また、スタイル社の 負債も払い終えた。
 千代は着物デザ−ナ−としても有名だ(千 代の好きな、紫や桜の花をデザインしたもの などで知られる)。
 千代はいつも「一日一枚でも原稿を書く」 ために机の前に座り続けた。その後も『刺す 』『或る一人の女の話』『風の音』などの作 品を次々に発表した。
 昭和四八年、北原武夫が病死。千代は七十 六歳になっていた。
 晩年の千代は、『生きていく私』などのエ ッセイを著し、恋愛観や生き方が多くの読者 の共感を得た。
「好きな人に会いに行くときにはその前に、 ほんのちょっと眠ること、これが一大発見。 じっとり脂気をふくんだ湿りがあって、生ま れたままの肌のような自然さがでる」 (『お化粧人生史』)

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