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イサドラ・ダンカン(舞踊家)Isadora Duncan
1877.5.26−−1927.9.14
即興 impromptu
「私が生まれる前、母は精神的にかなり、苦
しい悲惨な状況にあった。母は氷で冷やした
カキとシャンぺン以外の食べ物を受けつけな
かった。いつ踊り始めたのかと聞かれたら、
私はこう答えるだろう。『母の子宮にいたこ
ろからよ』。たぶん、カキとシャンパンのせ
いでしょうね」
イサドラ・ダンカンはサンフランシスコの
チャイナタウンにあるオ−ルド・セント・メ
アリ−教会で洗礼を受けた。両親はイサドラ
がまだ赤ん坊のころに離婚した。子ども四人
を女手ひとつで育てるために、母のメアリ−
は自宅でピアノの個人レッスンをして生計を
立てた。
イサドラにとって学校は、子どもの心の成
長と本能的な好奇心を妨げる牢獄でしかなか
った。本物の教育は、母がベ−ト−ヴェンや
シュ−マン、シュ−ベルトやモ−ツァルトを
弾いたり、シェイクスピアやシェリ−やキ−
ツを朗読したりする、夕べの時間に得られた
ものだった。これらの詩人や音楽家が創り出
すリズムはイサドラの魂に響いた。
彼女が一生続けてゆく仕事の種子は、こう
して蒔かれた。
イサドラの初めての契約は一八九六年、オ
−ガスティン・デイリ−が率いるニュ−ヨ−
クの劇団との間で交わされた。この劇団と巡
業に出たイサドラは『芸者』、『真夏の夜の
夢』といった劇に出演した。『真夏の夜の夢
』での「妖精その一」といった役どころは、
初期のイサドラに見られるニンフのような絵
画的舞踏を予感させるものだった。
イサドラは、古代ギリシア風のトゥニカ(
寛衣)をまとい、素足で踊った革命的なアメ
リカの舞踊家で、舞踊も独創的なら生き方も
自由奔放であった。
一八九八年(二十歳)四月に、ニューヨー
クのウィンザー・ホテルの火事に遭い、宿泊
していた彼女は衣類をそっくり焼失した。
「何もないほうが自然よね」
イサドラは全裸に近いほどからだを露出さ
せ、間に合わせの衣装で舞台に出た。
新聞はこれを皮肉って「ガーゼとサテンで
できた包帯みたいだ」と酷評した。
批判にめげることなく、イサドラはアメリ
カと訣別してヨーロッパにわたり、透ける薄
地の衣装(それぞれ長さの違うカラフルな布
切れを飾り付けた)に身を包み、素足の踊り
手としてヨーロッパ中の人気者となる。
最初は当時の電気ダンスの名手、ロイ・フ
ラーの一座に加わって巡業していたが、辣腕
興行主グロスの目に留まり、以後、彼のマネ
ージメントによってブタペスト、ベルリン、
ウィーンその他ヨーロッパ各地の大都市で単
独公演を催した。
イサドラの踊りは観客に衝撃を与えた。
ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナ
ウ』やショパンの『葬送行進曲』といった有
名な音楽を伴奏にカーペットを敷いた舞台で
滑るように静かに動き、ポーズを作る。ヌー
ドに近い姿の妖精、イサドラを見るために多
くの人が劇場につめかけた。
一方、私生活でのイサドラは二十五歳まで
処女だったが、その後は奔放な男性関係を繰
り広げている。
「この世の天国がどこにあるか教えてあげよ
う」
「ああ、ここがそうなら嬉しいわね」
天国が何なのかを知るや、今度は飽きるこ
となく追求する。イサドラはのめりこむと際
限なく、快楽をむさぼるのである。黒い瞳の
マジャール人相手の激しいセックスでふらふ
らになって舞台に立ったこともある。
イサドラは舞踊学校を設立して踊りも恋も
絶頂期を迎えた。演出家、舞台装置家のゴー
ドン・クレーグと出会ったその日に、二人は
ベッドインした(ゴ−ドンは舞台装置の専門
家だが、演劇史上、最高の演出家の一人。バ
−ナ−ド・ショ−とエレン・テリ−の間に生
まれたという)。それから二週間、二人はベ
ルリンのクレーグのスタジオにこもり、ワッ
クスを塗った黒い床に白い布を何枚か広げ、
その上に赤いバラの花びらを撒き散らして愛
しあった。
セックスにも演出が大切というのが、イサ
ドラの持論で、彼女はいつもムード作りにこ
だわった。
「セックスは頭で感じるものだから」
気の毒なのは、イサドラのマネ−ジャーだ
ろう。失踪事件か誘拐、あるいは最悪の事態
まで心配して、警察に捜索願いを出した。一
方で、公演中止の新聞告知も出した。
「イサドラは扁桃腺炎のため、公演は中止と
なりました」
その十カ月後に、イサドラは最初の私生児
を産んでいる。
一九〇六年(二十八歳)には、イサドラは
舞踊団を結成。同時に彼女はこの年、ミシン
王シンガーの二十三人の子どもの三男パリス
・シンガーの愛人になった。イサドラは、こ
の大金持ちのプレイボーイと七年間におよぶ
贅沢な暮らしの結果、二人目の私生児を身ご
もった。
「あら、おなかが大きいんじゃないの」
ファンの好奇の目は一点に集まっていた。
自由恋愛の信奉者だったイサドラは、明らか
におなかの目立つからだでステージに立って
ファンを困惑させた。
「ヘタクソになった」
酷評にも負けなかったイサドラだが、三十
五歳のとき我が身にふりかかった事件には打
ちのめされてしまった。たまたま駐車してい
た彼女の車(あいにく運転手が乗っていなか
った)が、ずるずると後ろ向きに滑り出し、
二人の愛児と乳母が車もろともセーヌ河に投
げ込まれ、溺死したのだ。
彼女は大きな精神的打撃を受けたが、踊り
と男が彼女を立ち直らせた。
二人の愛児を同時に失うという悲運に遭っ
た後、恋人と別れ、最初はイタリアへ。次い
でフランスへ移り、新しい恋人と出会った。
彫刻家(おそらくロダンか)との間に三人目
の子どもを身ごもったが、その子は生後一時
間で死亡した。
第一次大戦が終わった一九一八年に(四十
歳)、イサドラは新しい恋人を作った。ピア
ニスト兼作曲家のウォルター・ランメルで、
彼女は「私の大きな天使」と呼んですぐに夢
中になった。
「あなた浮気をしているんじゃないの!」
嫉妬深くなっていたイサドラは彼の女好き
の性格にいつもイライラしていた。
「別れたほうがよくなくて」
恋を仕かけたのもイサドラなら、別れも彼
女から言い出した。
四十歳を過ぎて、イサドラは長かった自由
恋愛に終止符を打ち、十七歳年下のセルゲイ
・エセーニンというロシアの詩人と結婚する
のである。
しかし、この結婚生活は短く悲惨だった。
エセーニンはアル中で狂気じみたところがあ
り、いたるところに壊れた酒ビンを残す男だ
った。そうでないときはホテルの廊下を裸で
大声を上げて走ったり、妻のお金や衣類を見
境いなく他人にやってしまうのだ。
イサドラは我慢の限界に達していた。
「男の心よりも私には若い肉体がほしい。何
か他に求めるものが男にあるというのかしら
?」
ロシア人の夫を伴って、モスクワからアメ
リカに帰国したとき、イサドラはボストンの
劇場の舞台から共産主義の象徴である赤のハ
ンカチを振った。観客はイサドラを責め立て
た。
「結婚契約書を読むほどの知性のある女で、
なおかつ結婚しようというのなら、どんな結
果になろうと文句を言うべきじゃないわ」
イサドラは結婚にも行き詰まり、悲劇に突
き進む。
イサドラは、首に巻いたトレードマークの
赤いスカーフをなびかせてさっそうとスポー
ツカーを走らせた。
「チャオ(さようなら)。また、会いましょ
う、私には未来永ごうの栄光が・・・」
そう言って、イサドラは見守るファンたち
に手を振った。その直後、長いスカーフが車
の後輪に絡みつき彼女の首の骨を折った。誰
にも予期できない結末。
革命的な舞踊家イサドラの人生は、踊りも
恋愛も自由であった。形にとらわれず、フリ
−ダンス(自由舞踊)という独自のスタイル
を作りだし、モダンダンスが新しい創造芸術
として認められるきっかけを作った功績は大
きい。
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