 |
|
![]() |
![]() |
ビリ−・ホリデイ(歌手)Billie Holiday
1915.4.7−−1959.7.17
ブル−ス blues
作家のトル−マン・カポ−ティは、一九三
〇年代の終わりから、四〇年代の初めにかけ
てニュ−ヨ−クのジャズクラブに入り浸って
いた。その一つ、フェイマスドアに、お気に
入りの歌手がいた。
「ミス・ビリ−・ホリデイだった」
一九五七年二月、サンフランシスコでひさ
しぶりに彼女の歌を聞いたとき、カポ−ティ
は愕然した。
「ジンびたり(かなにか)のせいで、もうあ
の声じゃない。なんて悲しいんだ」
翌年の秋、『ティファニ−で朝食を』を書
いたときも、繰り返し彼女の歌を聞いていた
(主人公の名前はホリ−こと、ルラメイ・ゴ
ライリ−)。
「生きるためには、まず何か食べるものと、
ささやかな愛を手に入れなければならない。
行儀作法について、誰かがたれる下らないお
説教に、おとなしく耳を傾けるのはそのあと
でいい」
ビリ−・ホリデイは天使のように歌い、身
にあまるほどの地獄を見た。
『奇妙な果実』の大ヒット曲で知られる黒人
ジャズ、ブル−ス歌手、ビリ−・ホリデイは
多くの人びとの心を揺り動かした。
天才歌手、ビリ−は歌手として認められ、
ハ−レムのナイトクラブから、ベニ−・グッ
ドマン、ア−ティ−・ショ−、カウント・ベ
イシ−といったジャズの大物とともに演奏会
の舞台に立ち、ライヴ・ステ−ジから映画に
まで幅広く活躍した。
「ママとパパが結婚した時、二人はまだほん
の子供の夫婦だった。パパは十八歳、ママは
十六歳、そして私は三つだった」
(自伝『奇妙な果実』由井正一・大橋巨泉訳
)
父はもともとトランペッタ−を目指してい
たのだが、戦争で肺を病んだため、今度はギ
タ−を習い始めたほど音楽好きだった。やが
て流しのギタ−弾きで暮らしを立て始めるが
、一家の生活は苦しかった。父が母子のとこ
ろに戻らなかったからだ。母はビリ−を従姉
のアイダにまかせてニュ−ヨ−クに出て家政
婦として働いた。
ある日、ビリ−の曾祖母は、一緒に寝てい
たビリ−をしっかり抱いたまま亡くなった。
曾祖母からビリ−のからだを引き離すのに曾
祖母の固くなった腕を折らねばならなかった
。この体験がビリ−に大きな傷となって残っ
た。
本名、エリノラ・フェイガン・ホリデイは
お転婆で、父は彼女を「ビル」と呼んだ。彼
女は自分のことを好きな映画女優のビリ−・
ダヴの名前をとって「ビリー」と呼ぶように
なった。
幼いビリ−は掃除屋として小遣い稼ぎをし
ながら、なんとか飢えをしのいだ。
十歳のビリ−は、判事からカトリックの感
化院送りを言い渡された。近所の中年男に強
姦されたにも係わらず、売春の容疑だった。
裁判所は彼女が被害者であることを信じよう
とはしなかった。それはむごたらしい暴力的
な出来事だった。
その後、ビリ−は生活費を稼ぐために売春
宿で使い走りを始めた。そのころまだ高価だ
ったプレ−ヤ−で、ルイ・ア−ムストロング
やベッシ−・スミスのジャズのレコ−ドを聞
いた。
十代のころからビリ−はニュ−ヨ−クで売
春婦をやった。ビリ−が好んだのは白人客、
なぜなら黒人は時間が長すぎたから。あると
き、ビリ−にサ−ビスを断られた黒人客が警
官に彼女のことを通報した。そのために、ビ
リ−は売春の廉で刑務所に入れられた。
のちにビリ−は、刑務所にいたときにレス
ビアンの関係をもったことを認めている。
初めてステ−ジで歌ったときから、彼女は
チップをもらうにも、それなりの品格をもっ
ていたので、他の女たちは「レディ」と呼ん
だ。ビリ−は舞台では下着をつけていなかっ
た。
”レディ・デイ”・ビリ−は心から迸るよう
なブル−スを歌うことができた。
ビリ−が一緒に寝ることを望んだ男たちか
ら、彼女は激しいインスピレ−ションを受け
た。ビリ−は大柄で端正な顔立ちの男が好き
だった。ビリ−の恋人だったドラマ−は、一
メ−トル九十センチもあった。
二十代のころには、ミュ−ジシャンの愛人
が大勢いて彼らは暴力をよく振るったので、
目の回りに黒あざ、からだは傷だらけの格好
で歌うことがよくあった。友だちから評判の
悪い男を遠ざけるよう忠告されると、それま
で以上に男たちを追いかけた。
男たちはビリ−を利用して食いものにした
ので、彼女はお人好しだと評判になった。
もっとも、ビリ−の人生におけるさまざま
な出来事がいつ起こったかは、明確なことは
わからない。たとえばソニー・ホワイトとい
う若いピアニストと婚約したときもそうだ。
ビリ−の気ままな情事のほとんどのように、
けっしていい加減だったわけではない。だが
、二人とも母親を養っていて、結局込み入っ
た家庭事情のために、ロマンスは終わりを告
げた。
テナ−・サックス奏者のレスタ−・ヤング
はビリ−にとって最高の友人だった。レスタ
−のオブリガ−ト・ソロはビリ−のム−ドと
完全にマッチし、二人で一緒に製作したレコ
−ドは、ビリ−のレコ−ドでも最高のものと
いわれる。
レスタ−はビリ−を「レディ・デイ」と呼
んだ。ビリ−のほうは愛情をこめて「プレス
」と呼んだ。「プレジデント・ル−ズヴェル
ト」を略した愛称だ。
二人がレコ−ディング、巡業、ナイトクラ
ブ出演などずっとともに過ごしながら、肉体
関係にまで進まなかったのは、興味深い。二
人で一緒に作った音楽からレスタ−が他の誰
もがなしえなかったほどビリ−の魂の内面の
奥底に触れていたことがうかがえる。
何年かのちに、二人が別々の道を歩むよう
になったとき、レスタ−はこう言った。
「いつまでも、彼女が私のレディ・デイであ
ることに変わりありません」
一九四一年に、ビリ−は実業家のジミ−・
モンロ−と出会って結婚した。ジミ−は「妙
な物」を吸っていた。二人の結婚が崩壊し始
めたとき、ビリ−はジミ−と一緒になって、
自分も阿片を吸うようになれば、何か魔力も
得られるかもしれないと考えた。
だが、ビリ−は三十歳になる前にジミ−と
別れ、当時二十五歳だったトランペット奏者
のジョ−・ガイと暮らすようになった。それ
はさながらビリ−とジョ−と麻薬との三角関
係だった。
その後も、たびたびビリ−は麻薬所持で逮
捕されている。
そしてビリ−が次の恋人として選んだジョ
ン・レヴィは、まさに「疫病神」だった。レ
ヴィはナイトクラブを経営し、仕事をビリ−
に押しつけた。
レヴィはビリ−に洋服や宝石を買い与えな
がら、いつしか彼女の財布を握ってしまって
いた。彼女は週三千五百ドルも稼いだのに、
この男に小遣いさえせびらねばならなかった
ほどお金に困っていた。レヴィは結局、南部
巡業中に資金が破産したビリ−のバンドとと
もに、彼女を置き去りにして離れてしまった
のだ。
一九五六年、ビリ−はルイ・マッケイと二
度目の結婚をした。マッケイはクラブの所有
者で、ビリ−のマネ−ジャ−だった。
ビリ−はルイにつくした。
一九五八年の終わりになって、二人はカリ
フォルニアで離婚を提訴した。彼女は離婚裁
判に決着がつくのを待たずしてこの世を去っ
た。
ビリ−はステ−ジに立つとき、髪に白いく
しなしの花をかざした。いつしかこれは彼女
のトレ−ドマ−クになった。くちなしの花言
葉は「私はしあわせ」である。ビリ−はいつ
も「私はしあわせ」と思って歌い続けたのか
もしれない。
「『愛してる』なんていわれると不安になる
。ただ、雨のなかを一緒に歩いてくれるだけ
でいいのよ」
|
|
|
|
 |