究極のマリリン・モンロー A-Z(メルマガ)
週に1度、マリリン・モンローの情報をお届けします。
メールマガジンの申し込みは、こちらです(melma!)
「妻は生きている」
究極のマリリン・
モンローA-Z
愛に生きる伝説の
女たち
聖林百話
新ボストンに友情あり
マリリンの素顔
元祖・雑学の悦楽
(Significa) NEW

メルマガ登録 NEW
最新情報
PROFILE(プロフィール)
ご意見・ご感想
リンク集
smile@ainoue.com
TOPに戻る
web KADOKAWA

連載中

モバイル版はこちら
ジャニス・ジョプリン(歌手)Janis Joplin
1943.1.19−−1970.10.4

恍惚 rapture

「ハ−イ! マザ−ファッカ−!」
 ジャニス・ジョプリンは、観客に向かって 叫んだ。
 酒に浸りながら、強いビ−トをきかせたブ ル−スを歌い、ジャニスは自分が憧れていた ベッシ−・スミスやビリ−・ホリデイといっ た歌手と肩を並べるようになった。
 二十七歳の短い生涯で、『ポ−ル&チェ− ン』や『ビッグ・ブラザ−・アンド・ホ−ル ディング・カンパニ−』『チ−プ・スリル』 『コズミッククブル−ズを歌う』『パ−ル 』などのアルバムで多くの若者を熱狂させた ロックの歌姫。
「ドラッグ、セックス、ロックンロ−ル。こ れさえあればいい」
 一九六〇年代、反抗の象徴でもあったジャ ニス・ジョプリンはテキサス州ポ−トア−サ −という活気のない町に生まれた。父のセス は石油精製所の監督で、物静かな男だった。 母のドロシ−は頑固で几帳面な反面、ビジネ ス感覚に長けていて、ジャニスはこの母に似 ていた。ジャニスは幼いころから、規則や慣 習に従わず、そのため苦労をすることが多か った。
 ジャニスは芸術的なものに心を惹かれ、読 書や絵を描くことが好きだったので、母は作 家か画家になると思っていたようだ。
 誰もが言うように、ジャニスは驚くほどナ イ−ヴでのろまな、それこそ人によく思われ るためならどんな誘いにでものってくるよう な少女だった。トマス・ジェファ−ソン高校 でジャニスの一年上級だったア−リ−ン・エ スタ−はカ−リ−ン(ジャニスのポ−トア− サ−時代の友人)といっしょになって途方も ない作り話をでっち上げて、ジャニスに聞か せていた。ジャニスはどんな話でも信じた。
「たしか九年生のころだったかしら」カ−リ −ンは回想する。「ジャニスが自分の意見を もつようになるのは。人種差別廃止について どう思うかって聞かれたとき、ジャニスはた ったひと言、「それはいいことだと思う」っ て言ったの。ポ−トア−サ−ではけっして言 えることじゃなかった。いまだに言えないく らいなのよ! それからというもの、男の子 がいつもジャニスを追いかけまわしては、い たるところでは「黒人びいき」呼ばわりして いた」
 ジャニスは太りすぎで、ひどいにきび面だ ったので、「ブタ面」(ピッグ・フェイス) という有り難くないニックネ−ムを頂戴した 。美術を専攻したラマ−・カレッジでは「キ ャンパスで最も醜い人物」に選ばれてひどく ショックを受けている。
 そうした攻撃から身を守るものが、ジャニ スには必要だった。それが大酒、ドラッグ、 セックスだったかもしれない。
 ジャニスは隣りのルイジアナへと出かけて 男みたいに安酒屋(ホンキ−トンク)に入り びたった。ブル−スと出会ったのはそこだっ た。ジャニスはベッシ−・スミスの物真似を はじめ、カフェや路上などで、酒一杯分で歌 った。
 ジャニスは家を出て、サンフランシスコを 根拠とするロックバンド、ビッグ・ブラザ− ・アンド・ホ−ルディング・カンパニ−に加 わり、そのリ−ド・ヴォ−カルになった。  ヘルス・エンジェルスと、サンフランシス コを拠点とするいくつかのバンドとのあいだ には、連帯感のようなものが芽生えていた。 ジェファ−ソン・エアプレイン、グレ−トフ ル・デッド、なかでもエンジェルスが特に親 近感を抱いていたのが、ビッグ・ブラザ−・ アンド・ザ・ホ−ルディング・カンパニ−だ った。
 ジャニスがエンジェルスのメンバ−と親し くなったとしても、それはごく自然なことだ った。エンジェルスはつねに、身近な存在で あり、またジャニスも、そのころようやく周 囲の環境に溶け込んできたところだった。一 部で「過激だ」と思われていたとおり、ジャ ニスはエンジェルスとウマがあっていた。そ れは彼らのなかに自分と共通する正直さを見 たからだった。本能や自分の信じるものに溺 れ、クスリを注射し、カ−ドのように男をと っかえひっかえしたとしても、それは彼女が あらゆることを経験したいと望んでいたから だ。
 ビッグ・ブラザ−なるメンバ−の一人が言 う。
「セックスに関しては、まるでお堅いところ なんてなかった。ジャニスの望みはただひと つ、さっさとぶっとんじゃおうよ! それだ けさ」
 第一回モンタレ−・ポップ・フェスティバ ルでは、ジャニス・フィ−バ−を巻き起こし た。
 ジャニスはクスリとアルコ−ルを毎日欠か したことはなかった。それを隠そうともしな かった。彼女はサザンコンフォ−トを愛飲し ていた。無料で宣伝してやったお礼に毛皮の コ−トを贈れと強要したりしたこともある。 彼女の狂気に取りつかれたようなイメ−ジは ファンからは崇拝され、プロモ−タ−から疎 まれた。
 セックスに対する考えも自由奔放で、思う ままに行動をした。
「ねえ、楽屋でやろうよ」
 こんなときのセックスの相手には十六歳か 十七歳の可愛い少年を好んだ。
 ストレ−トな表現を使うことで、相手があ ぜんとしている間に、ものにしてしまうとい うのがジャニスがもっとも得意とするテクニ ックだった。
 しかし、有名になる以前のジャニスの男性 体験は辛い記憶しか残っていない。
 故郷テキサスを出てサンフランシスコに来 てまもなく、ジャニスは男に振られ、坂を男 に引きずられながら歩いたこともある。
「捨てないで、お願い」
 また、ジャニスを苦しめた少女時代の屈辱 は、彼女の心の中に根強く残っていた。だか らジミ・ヘンドリックスやミック・ジャガー のようなステージができないのだと嘆いてい たこともある。
「私は大スターなのにセックスする男さえい ない」
 と泣きわめくこともあった。
 実際には相手はかなりの数におよんだが、 同じ男と数回以上ということはなかったよう だ。
 長い汽車旅行をしたときこんなことを言っ たことがある。
「汽車には四百人近くの男がいるのに私がセ ックスしたのはたったの六十五人だけ」
 捨てられるのを極端に恐れたジャニスはオ ーガズムに達した演技をしていた。
 ジャニスが最も真剣につきあったスター歌 手はクリス・クリストファーソンだった。ジ ャニスはクリスを愛した。しかし、ジャニス の愛人の女性(ジャニスはバイセクシャルだ った)もクリスを愛してしまい三角関係に苦 しむことになった。
 ジャニスは人気の絶頂にあるときも、終始 淋しげで、本当に自分が望んでいるのは、家 庭生活なのだと友人に打ち明けている。
「彼が九時に家を出て行くでしょ、そのとき 彼は私のためにだけ、六時には家に帰ってく るって私にはわかるわけ。愛しい男さえいて くれればね。そうすりゃ、私はそいつをとる 。ガレ−ジ二つに、テレビ二台つきでね」
 ドラッグの量を減らすようにと友人から忠 告を受けると、ジャニスはこう答えた。
「大いにやろうよ、私は三十歳までしか生き ないんだから」
 そう言いながらも、ジャニスは友人の忠告 を聞いて、ヘロインの数を減らしたこともあ る。
 ジャニスが舞台に立てば、ひと晩で、億単 位のビジネスが成立した。が、彼女は疲れて いた。
 大観衆を前にして歌う恍惚とその後に押し 寄せてくる孤独。
「ステ−ジの上で私は二万五千人もの人びと を愛し、それからたった一人で淋しくホテル に戻るの」
 一九七〇年四月、ジャニスはフルティルト ・ブギ−・バンドを結成して、当時としては 望みうる最高のスタッフを得た。
 新しい恋人にも出会って、表情も明かるく なった。
 だが、その一方でジャニスは大酒を飲んで いた。アルバムは成功したが、自分のキャリ アに不安を抱いて落ち込んでいた。
 コンサ−トのできが悪いとなると、さらに 落ち込んだ。キャンセルが多くなると、ジャ ニスはセス・モ−ガンと結婚する計画を立て た(ジャニスは結婚相手とセックスの相手と 完全にわけていた)。
 そしてまた、ヘロインに手を出したのであ る。
 九月十八日、木曜日にジミ・ヘンドリクス がヘロインの過剰摂取で亡くなったことに、 ジャニスはひどくショックを受けた。
「ちくしょう! 先を越されたわ」
 自分の将来に対する不安で深刻な鬱状態に 陥った。自分は結婚するよりも、死んでしま ったほうがいいと思うようになり、結婚の同 意書を何度も書き換えた。同時に、遺書も書 いた。
 土曜日に市役所に電話をかけて結婚証明書 について問い合わせをしている。
 その同じ日に、めったにないような極めて 純度の高い、ヘロインがジャニスの元に届け られた。町をぶらついて、いつものように何 杯かひっかけたあとランドマ−クホテルに翌 朝の一時ころ戻るのをバンドのメンバ−が確 認している。
 その一時間後の十月四日の朝に、ジャニス は麻薬の過剰摂取のために死亡した。遺体の そばには、マ−ルボロ一箱と釣り銭とおぼし き四ドル五十セントが残されていた。
 意外にもカントリ−・ジョ−(カントリ− ・ジョ−・アンド・ザ・フィッシュというグ ル−プを率いて活躍したロック・ミュ−ジシ ャン・一九六六年当時、ジャニスの恋人だっ た)の意見は正反対である。彼はジャニスの 死後、『ロ−リング・スト−ン』誌のインタ ビュ−でこう語っている。
「クスリを打っては大騒ぎをして、叫んで怒 鳴ってわめきちらす、みんなそんなジャニス を見たがってた・・・まあ、子どものころに テキサスで何があったか知らないけれども、 おれにはこう感じられたんだ。こいつは自分 に合わない場所で誤解されてばかりいる場違 いな人間だってね」
『ニュ−ズウィ−ク』誌の表紙を飾ることに なっていた一九六九年四月七日、ドワイト・ アイゼンハワ−(アイク)元大統領が死去し た。表紙は、アイクに変更になった。そのと きジャニスは言った。
「くそったれ! 何もこの週にくたばらなく たって、あたしの週だったんだよ」
 憎んでる あたしを憎んでる
 まるで世界中のみんながひとり残らず
 あたしを憎んでるみたい
(『ダウン・オン・ミ−』)
 修正した遺言書に署名したのは、死の二日 前だった。 「カリフォルニア州サン・アンセルモのパブ (彼女のお気に入りだった)で夜通しパ−テ ィを開くこと」
 遺産は二千五百ドル。
「それだけあれば、私が逝っても、ガンガン やれるでしょ」
 友人二百人が集まって、ジャニスのために 一晩中、飲み明かした。
このサイトはIE4.0以降のブラウザでご覧ください
Copyright (C)Atsuo Inoue 1998-2004 無断転載禁ず
このページはリンク設定自由ですが、
リンクを設定した旨を電子メールにてお伝えください。
書籍を購入される方は、
書籍名で検索してください→


This site powered by H.ozaki