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ジュディ・ガ−ランド Judy Garland
1922.6.10−−1969.6.22

悪夢 nightmare

「生涯を通して、私は何をやるにも過剰だっ たわ」
 ジュディ・ガ−ランドはミネソタ州グラン ド・ラピッズの生まれ。両親はともにボ−ド ヴィリアンだった。三人姉妹の末っ子のフラ ンセス(ジュディの本名)は二歳半で地元の ニュ−グランド・シアタ−で初舞台を踏み、 クリスマスのプログラムで『ジングル・ベル 』を歌った。水を得た魚のように七回も歌を 歌い続ける彼女を父親は、やっとの思いで舞 台から引っ張りおろさなければならなかった ほどだ。
 三人姉妹は「ガム・シスタ−ズ」を結成し て人気者となったが、姉の一人が結婚したた め、シスタ−ズは解散。その後、フランセス はジュディ・ガ−ランドと名を変え、一人で 歌い、踊り始めることになる。
 伝説によれば、ジョ−ジ・ジェセル(アメ リカの俳優、映画プロデュ−サ−、司会者) が少女歌手フランシス・ガムを初めて紹介す るときに、その名前を忘れてしまい、ジュデ ィ・ガ−ランドと紹介した。ジェセルはちょ うどジュディス・アンダ−センに”ガ−ラン ド(花輪)”という言葉を使ったメッセ−ジ を送ったばかりだったので、その名前を使っ たのだ。また、レス・ブラウンがタホ−湖の ザ・ロッジに出演した彼女を見てそう名づけ たという説もある。
 一九三六年、十三歳のとき、ジュディ・ガ −ランドはMGMのテストを受けて合格。も っとも、認められたのは声だけだった。映画 に必要な才能はもっていないと評価された。 映画に何本か出演したが、これといって目立 った活躍はなかった。
 その間に、父のフランク・ガムが脊髄膜炎 で死んだ。同性愛者で、母との折り合いは悪 かったが、ジュディは父が大好きだった。父 を失ったのは母のせいだとジュディはずっと 思い悩むようになる。
 ジュディをスタ−の座に押し上げたのは、 一九三九年の『オズの魔法使い』だ。製作者 のア−サ−・フリ−ドは初めドロシ−の役を 当時人気最高の少女スタ−、シャ−リ−・テ ンプルと交渉していたが、断られたために、 仕方なくジュディに変更したのだった。
 作品は記録的な大当たりとなり、主題歌『 オ−ヴァ・ザ・レインボ−』(虹の彼方に) も大ヒット、ジュディ・ガ−ランドは世界的 に有名になり、アカデミ−特別賞まで受賞し た。
 一九四一年、十八歳で、ジュディは作曲家 のデヴィッド・ロ−ズと結婚したが、二年で 別れた。彼は妻よりも汽車のセットに夢中に なったり、徹夜で作曲をしたりするのを好ん だ。ジュディのほうも撮影で遅くなることが 多かった。そのストレスから彼女は、クスリ を求めるようになる。さらに、母のエセルと 再婚したビル・ギルモア(父フランクの命日 に結婚した)が、ジュディの収入を投資して 失敗した。
 だが、女優としては順調だった。一九四四 年の『若草の頃』が大ヒット。演出したヴィ ンセント・ミネリと恋に落ちた。翌年に結婚 し、四六年三月に、のちの女優、歌手ライザ ・ミネリが生まれる。
 ミネリ監督の『ザ・クロック』ではジュデ ィ・ガ−ランドは初のシリアス役で、ミュ− ジカル女優ではない一面も見せた。
 一九四八年、不眠症と不安のために睡眠薬 を使用していることを暴かれた。まだ、二十 六歳の若さだった。ミネリとの結婚生活もう まくいかなくなって、五十年には離婚。映画 出演も減り、MGMとの契約も解除されてし まった。
 一九三六年から五〇年の十五年間に、ジュ ディはMGMで二十八本の映画を撮ったが、 赤字になった作品は一つもない。にもかかわ らず、契約を二年残して破棄された。
 ジュディは未納税額六万ドルの支払い義務 があり、月賦で支払うようになったが、唯一 の収入は毎月MGMから送られてくる補助金 の小切手一七一ドルだけ。
 そんな折り、ロンドン・パラディアムでの 公演の話が舞いこんできた。これは大成功を 収め、さらに興業師のシド・ラフトがニュ− ヨ−クのパレス劇場で公演する企画を思いつ いた。これで、みごとにジュディは復活を遂 げるのである。一九五二年には、ラフトと結 婚した。
 彼のプロデュ−スによる映画『スタ−誕生 』はジュディの魅力を充分に発揮したものに なった。
 しかし、この映画の撮影中、マスコミはジ ュディを槍玉にあげた。制作の遅れを彼女の 薬物乱用のせいにしたのだ。
「ねえ、ジュディには気をつけてね、バスル −ムに入ったら、置いてあるクスリはなんで も飲んじゃうんだから」
(ロ−レン・バコ−ルがザ・ザ・ガボ−ルに 言った言葉)
 ジュディは『スタ−誕生』でオスカ−の最 優秀女優賞にノミネ−トされた。彼女は賞の 本命だった。ところが、『喝采』のグレ−ス ・ケリ−が獲得した。彼女は三人目のジョ− イを出産、そのベッドで朗報を聞くつもりで いた。失望のあまり、彼女は肉体的にも精神 的にもバランスを失った。
 ジュディは、ヒステリックにわめきたてて 、酒浸りになった。あげくに放浪生活を続け 、モ−テルを転々とした。このころから自殺 癖がついたといわれる。そのため映画には出 演せず、キャバレ−やコンサ−トでのショ− が活動の中心となった。
 一九五九年の暮れ、ジュディは中毒症状を 起こして入院した。肝硬変にかかっていて、 体重は増大していた。治っても、もう動けな いといわれたが、回復の兆しをみせた。
「太っちゃったら、仕事ができない。だから 太っちゃだめ」
 一九六〇年代初めに、『ニュ−ルンベルグ 裁判』『愛の奇跡』などにシリアス演技を見 せた。その後ジュディはスクリ−ンでの輝き を失った。
 一九六五年には、ラフトと離婚し、マ−ク ・ハ−ロンと四度目の結婚をした。
 この間に、ロンドンのパラディアムで、ラ イザと共演したとき、娘に人気が集まり、嫉 妬したというエピソ−ドも残っている。ジュ ディとライザの関係は、ちょうどジュディの 母エセルとジュディとの愛憎関係が繰り返さ れたといっていいだろう。
 父は温厚だが、母の行動は常軌を逸してお り、夫妻はライザが四歳を過ぎたころから別 居生活をしていた。そのため、ライザは十三 歳のころには、すでに母親の面倒を見ていた 。
 自殺未遂やヒステリ−、妹や弟の世話もし なければならなかった。最初、ジュディは妹 のロ−ナのほうが自分の才能を受け継いでい ると言っていた(もっとも、すぐにこの言葉 は訂正したが)。
 ジュディも一時期、ライザの反発を受けた が、ライザはすぐにジュディを許した。それ はパフォ−マ−としてのジュディに対する尊 敬の念からだった。ジュディと母エセルとの 場合は状況が大きく異なっていた。
 ジュディはマ−ク・ヘロンとも二年で離婚 した。
 一九六七年、かつての夫シド・ラフトがも ちこんできたグル−プVという会社と契約を したが、これがジュディをがんじがらめにし た。じつは悪徳マネ−ジメントの集団だった 。彼女は働いても、いっこうに負債は減らず 、増えるだけだった。
 一九六八年、アメリカを逃れてジュディは イギリスに渡った。
 一九六九年の三月、ロンドンのキャバレ− でショ−に出演したが、三カ月後の六月二十 二日に急死した。検屍の結果は、睡眠薬を誤 って大量に飲み過ぎたものとされた。
 そのころ、娘のライザは映画『くちづけ』 で、注目を浴びている。
 ジュディの死を誰も早すぎたとは思わなか った。むしろよく生き延びと思ったほどだ。 「ミス・ショ−ジビネス」といわれ類いまれ な才能は誰もが認めたが、ジュディは「自分 にはこの仕事が向いていないので、止めたい 」と言い続けていた。
 だが、誰も彼女の悩みに真剣に耳を貸すも のはいなかった。
 三歳から働き続け、映画会社に多大な収益 をもたらしたジュディだったが、亡くなった ときには四百万ドルの借財を負っていた。
「あの子にはできないことはなかった。自分 自身を大切にすること以外は」
(歌手のビング・クロスビ−)
 一九七〇年十一月四日、ジュディはウェス トチェスタ−郡ハ−ツデ−ルのファ−ンクリ フ霊廟に埋葬された。墓碑はベ−ジュ色の光 沢のある大理石製で、そこには、「ジュディ ・ガ−ランド 一九二二−−一九六九」とだ け記されている。
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