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ジェイン・マンスフィ−ルド(女優) Jayne Mansfield
1933.4.19−−1967.6.30

爆弾  bombshells

「この国は、第二の戒律よりも、ジェインの からだのサイズのほうを知っている」
(エヴァンジェリストのビリ−・グラハム牧 師)
 ジェイン・マンスフィ−ルドのスリ−サイ ズは、四十インチ(百一・六センチ)−−十 八インチ(四六センチ)−−三五インチ(八 九インチ)。
 この一九五〇年代のブロンドの肉体派女優 からは、およそ子どものいる女性という感じ を受けないが、五人の子どもの母親だった。 この事実を隠すどころか、むしろひけらかし 、子どもは悩まされた。
 一九五六年に、『プレイボ−イ』誌で豊満 ヌ−ドを披露して最初の夫ポ−ルから娘のジ ェイン・マリ−の養育権をめぐって裁判所に 訴えられたときも、こう証言している。
「私には何もやましいことはありません。娘 には毎晩、聖書を読んであげていますし、と ても物分かりのよい子です。雑誌にヌ−ドで 出たのは、この子にミルクとパンを与えるた めです」
 ジェインは、(本名は母と同じ、ヴェラ) 一九三三年にペンシルヴェニア州プリンモア で生まれた。父のハ−バ−ト・パ−マ−は有 能な弁護士で、政治家になる野心をもってい たが、若くして病死した。
 父の死から一年もしないうちに、母のヴェ ラは再婚し、一家はダラスに移り住んだ。 「私たちは裕福だったし、たいていの子ども がほしがるようなものは、なんでも買っても らえた。でも、私は映画雑誌を見て、人生が 変わった」
 とジェインは言う。
「私は映画スタ−になりたいと思った。キャ デラックに、ミンクのコ−ト、それにスイミ ングプ−ルつきの邸宅に住みたいと考えるよ うになったわ」
 ジェインが夢見た最初のスタ−は、シャ− リ−・テンプルだった。
 ジェインには、強烈な武器があった。二つ の爆弾、豊満な乳房である。
「十歳のときから大きくなりはじめた。十七 歳のときには、もう四十ンチ(百一・六六セ ンチ)になっていた」
 ジェインは、他の女性と違って特別である ことに誇りをもっていた。
 当然、男の子たちの関心は集めたが、誰ひ とり特定の相手とデ−トするとは思ってはい なかった。ところが、一九五〇年五月六日、 十七歳のときに三歳年上のポ−ル・マンスフ ィ−ルドと結婚する。
 ジェインは無事にハイランド・パ−ク高校 を優秀な成績で卒業して、ジェイン・マリ− を出産した。その年の秋、夫のポ−ルがテキ サス大学に入学したので、ジェインも同じ大 学で学ぶことにした。ベビ−シッタ−を雇う お金のない若い夫婦は、赤ん坊を連れて大学 に通った(IQは百六十三)。
 一九五一年の夏に、ジェインはUCLA( カリフォルニア州ロサンゼルス校)で演劇を 勉強を始めた。このとき、一九五一年ミス南 カリフォルニアの決勝まで残った。
 そして一九五四年に夫と三歳の娘のジェイ ン・マリ−とともにハリウッドに出た(すぐ に夫と子どもはすぐにテキサスに帰った。夫 は妻が芸能界に入るのは、反対だった)。  その後、ジェインはニュ−ヨークのブロ− ドウエイに出たことがきっかけで、ワ−ナ− 映画からスカウトされた。
 ブロ−ドウェイの舞台『成功はロック・ハ ンタ−を駄目にするか』がヒットすると、ジ ェインは娘を連れて楽屋にかようようになっ た。劇場側のスタッフの一人は、ジェインが 娘をよく一人で五五番丁目の地下鉄の駅で遊 ばせていたことを覚えている。
 ジェインはデ−トにも娘を連れて行き、メ イドと一緒にトイレで待たせていたこともあ る。娘のジェイン・マリ−が母の舞台出演中 に寝てしまったときには、「お母さんのする ことを見ないでいて、将来どうして立派な女 優になれるの」と叱った。
 モデルや映画の仕事も好調で『女はそれを 我慢できない』などで話題をまいた。
 ジェインは五人の子どもをもうけたが、  下の四人の子どもは彼女がスタ−になってか ら生まれた。
 一九五六年にポ−ルと離婚。
 一九五八年一月十三日にハンガリ−系で元 ミスタ−・ユニバ−スのミッキ−・ハ−ジテ ィと結婚。同じ年に、息子ミクロ−シュが生 まれている。その後、六〇年にゾ−ルタン、 六四年にマリシュカが生まれた。
 子どもたちはジェインの建てたベヴァリ− ヒルズの豪邸ピンクパレスで育てられた。ピ ンクの大理石の暖炉、床にピンクの毛皮を敷 きつめた浴室が十三、それにジェインご自慢 のハ−ト型のプ−ルまであった。
 また、ジェインはどこに出かけるにも子ど もたちを連れて行った。
「私といつも一緒にいられるでしょ」
 というのが口癖だった。もっとも、イギリ スのブラックプ−ルで行われたフェスティヴ ァルに生後八カ月のミクロ−シュを出演させ 、全英児童虐待防止協会から抗議されたこと もある。
 一九六六年に家族で動物園に遊びに出かけ たとき、六歳の息子のゾ−ルタンがライオン にひっかかれ、頭蓋骨にひびが入る大怪我を し入院した。その一カ月後のクリスマス、ゾ −ルタンが無事退院すると、今度は記者会見 を開いて、息子の回復を披露した。
 ジェインの家族はどんどん増えたが、結婚 生活は破局に向かっていた。一九六四年には ハ−ジディと離婚するはめになった。
 ミッキ−・ハ−ジティは、妻のあくなき自 己顕示欲に疲れ果てていた。そのころ、ジェ インは他の男とも関係があった。娘のマリシ ュカが生まれたとき、夫のハ−ジディはいっ たん家に戻ったが、結局二人は離婚した。
 ジェインはすぐにマット・チェンバ−監督 と三回目の結婚をした。二人の間には一九六 五年に、末の息子トニ−が生まれた。
 その後二人は別居、夫チェンバ−は息子の 養育権を求めて裁判を起こした。娘のジェイ ン・マリ−が父親の側に立ったが、ジェイン が養育権を得ることになった。
 一九六七年六月二十九日の早朝、テキサス 州ビロクシでナイトクラブの仕事を終えたジ ェインは、六十六年型ビュイックに乗りこん でTV番組に出演のためにニュ−オリンズへ と向かっていた。幼い子ども三人と愛犬たち 、それに新しい恋人の弁護士、サム・ブロウ ディも一緒だった。
 国道US九〇で、トレ−ラ−トラックに衝 突した。トレ−ラ−はまるでナタでヤシの枝 を切り落とように、ビュイックの屋根をすっ ぽりと切り取った。運転手とブロウディはハ イウェイに放り出され即死。子どもたちは奇 蹟的に助かったが、ジェインのからだが地面 に叩きつけられとき首はすでに切り落とされ ていた。
 翌朝の新聞には、一九五六年ごろのジェイ ンの笑顔が読者の同情と哀悼の思いを誘った (ボンネットにチョコンと乗っている彼女の 首を載せた新聞もある)。       ジ  ジェインには亡くなってからも、生前と同 じように敵と友人がいた。
 女優のメイ・ウエストは「あんな性悪女は 見たことないわ。性悪だからこそぶっとばさ れたのよ」と語っている。
 遺体は故郷に埋葬してほしいという生前の ジェインの意向をくんで、ペンシルヴェニア 州ペンア−ガイルのフェアヴュ−墓地に埋葬 された。ジェインの棺は中央に大きなハ−ト マ−クを、その周囲に薔薇をあしらった毛布 に覆われている。
 その後、ハリウッドに憧れたジェインは「 死んでも田舎に帰りたくなかったろう」とフ ァンクラブの人びとが、ハリウッド・フォア エヴァ−・セメタリ−に墓を作った。ここに も、墓石にピンクのハ−トが彫ってある。
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