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ベッシ−・スミス(歌手) Bessie Smith
1894?−−1937.9.26

拳骨 fist

 ベッシ−・スミスは史上最高のブル−ス歌 手といわれる。「ブル−スの女王」の座にい たのは、わずかに六年間。天性の歌声はいま でも多くの人びとを惹きつけている。
 ベッシ−はテキサス州チャタヌガの貧しい 家庭で育った。生年月日は、はっきりしない (ただし、彼女の結婚許可証には一八九四年 四月十五日と記載されている)。
 七人兄弟姉妹の二番目として生まれた。父 の名はウィリアム・スミス、小さなミッショ ンを受けもつパ−トタイムのバプティストの 牧師だったが、ベッシ−誕生後まもなく死亡 した。母のロ−ラもベッシ−が八歳のころに 亡くなっている。
 貧しく、教養のない、黒人にとって、生き る道は家内工業か巡業しかなかった。
 大道芸人だったベッシ−が一九一二年に、 一番末の弟クラレンスに誘われてモ−ゼス・ スト−クスのトラヴェリング・ショ−のオ− ディションを受けたのが、歌手ベッシ−・ス ミスを生むきっかけとなった。このときから ボ−ドヴィル劇場で踊れて、歌って、演技が できる偉大なパフォ−マ−が作られていった のである。
 週に一度の休みもなく、ときには一日に十 回のショ−をこなしこともある。他の歌手と 歌い、手品やコミック・ダンスを演じたりし た。
 背が高く、太っていて、肌の色が黒いベッ シーは多くの人びとを強く惹きつけた。舞台 では奇妙な帽子をかぶり、派手な衣装をまと っていたからなおさらだった。
 ベッシ−は黒人が好きだったが、お高くと まっている黒人に対しては嫌悪感を抱き、む しろ白人の自由社会のほうを好んだ。ジョセ フィン・ベイカ−やのちのビリ−・ホリデイ やエラ・フィッツジェラルドがヨ−ロッパで も成功を収めたのに、ベッシ−は黒人の多い ところや、自分がよく知っている都市以外に はけっして行かなかった。
 ベッシ−は快楽を追い求める一方で、信仰 が篤く、教会にもよく出かけた。彼女はひど く短気で、男でも女でもすぐに拳骨で殴りつ けた。黒人が白人に対して卑屈な態度をとる のを嫌った。
 アルコ−ル依存症で問題を起こしたが、も っと厄介だったのは金銭感覚が欠如していた ことだ。見ず知らずの人にはお金をばらまく のに、出演料やバンドのメンバ−へのギャラ の支払いをしぶったりした。
 事実お金もなかった。ベッシ−の最初のレ コ−ド、『ダウン・ハ−テッド・ブル−ス』 は、発売から六カ月で七十八万枚も売れたが 、当時はア−ティスト印税はなく、彼女はA 面で百二十五ドルもらっただけだった。
 一九二二年から二九年までのベッシ−の全 盛期に、コロンビア・レコ−ドでおよそ百五 十曲を吹きこんでいる。そのうちの何枚かは ミリオン・セラ−になり、死後も八枚のLP が出ている。しかし、その六年間に彼女が得 た収入は総額二万八千五百七十五ドルで、き わめて少ない。
 一九二三年六月七日に、自称警察官で夜警 をしていたジャック・ギーと質素な結婚式を 挙げた。最初のうちは結婚生活もうまくいっ ていたが、ベッシ−は嫉妬のあまり常軌を逸 した行動が目立った。
 ある年の巡業中、「ギーがコ−ラスガ−ル といちゃついている」という報せがベッシー の耳に入った。すると彼女は、真偽を確かめ ることなく、そのコ−ラスガ−ルを捕まえる と列車から線路に放り投げた。あわてたギ− は列車を止めてコ−ラスガ−ルを助けようと した。ベッシ−はそれにも腹を立て、ギ−の 拳銃を取って乱射したのだ。
 かといって、むろんベッシ−が貞淑な妻だ ったわけではない。若い男のダンサ−を巡業 中に連れていた。ベッシ−が別のコ−ラス・ ガ−ルを殴って刑務所に入れられているとき に、若い男はベッシ−の保釈金千ドルをもっ て逃げてしまった。
 お互いにやりたい放題の生活を送ってきた が、一九二九年の初め、ギ−はベッシ−の資 金を使って興行を打ち、恋人を出演させた。 そのことを新聞記事で読んだベッシ−はシン シナティからギ−が宿泊しているオハイオ州 コロンバスのホテルにに怒鳴りこんだ。ベッ シ−が到着したとき、恋人がいなかったのは 不幸中の幸いだった。ホテルの部屋の家具は めちゃめちゃに壊され、ベッシ−自身も血だ らけになる大怪我を負った。
 その後、二人はいったんはもとの鞘に戻っ たが、ふたたびギ−が恋人のところに走った ので、二人の結婚生活は終わった。
 酒に溺れる日々が続くなかで、ベッシ−は 本当に信頼できる相手を見つけた。
 一九三〇年の夏、ベッシ−の一座がシカゴ に立ち寄ったときに、以前から知りあいだっ た酒類業者のモ−ガンとの友情が再燃して愛 に変わったのだ。モ−ガンがベッシ−の仕事 の実務面を見ることになった。二人の関係は 一九三七年に、ベッシ−が亡くなるまで続い た。
 ベッシ−には、子どもはいなかったが、あ るコ−ラスガ−ルの産んだ子どもを養子にし た。
 その一方で彼女は女性とのセックスライフ を楽しんだ。一九二六年ごろ、ベッシ−はリ リアンというコ−ラスガ−ルを可愛がってい て、巡業用の汽車のベッドはいつも一緒だっ た。あるとき人前で、ベッシ−がリリアンに キスをしようとして断られたのに腹を立てて 罵倒した。リリアンは自殺未遂をした。
 また、女性が経営する女性専門の売春宿に よく行ったという。そこではギャンブル、セ ックス・ショ−や売春などを楽しんだ。
 ベッシ−は働き続けた。ボ−ドヴィルのシ ョ−をやりながら巡業したり、あるいは仲間 のショ−に特別出演したりした。ベッシ−の 伴奏者のなかには、ジャズの大御所、ルイ・ ア−ムストロングやフレッチャ−・ヘンダ− ソン、コ−ルマン・ホ−キンズやベニ−・グ ッドマンなどがいる。
 一九二九年には、『セントルイス・ブル− ス』という短編音楽映画に出演した。W・C ハンディの歌をミュ−ジカルに脚色したもの である。
 しかし、一九三〇年代にはベッシ−の歌手 としての人気は下り坂になった。大恐慌が広 範囲に影響を及ぼし、音楽の傾向がブル−ス からスイングに移ったこと。映画やラジオと いったメディアが台頭してきたのが原因だっ た。
 一九三七年七月、ショ−の南部公演をする ため車で向かう途中に衝突事故を起こし、ベ ッシ−・スミスは亡くなった。
 何十年ものあいだ語りつがれてきたことだ が、ベッシ−・スミスが死んだのは白人専用 の病院が手当てを拒んだからだといわれてい る。
 これは真実ではなく、彼女を失った悲しみ を認めたくないために、作られた逸話だと思 われる。白人専用の病院は救急処置を拒んで はいない。
 その後、一九七〇年に彼女のレコ−ドが再 発売されることになった。
 そのときベッシ−の墓石が作られていない ことが発覚した。元夫のギ−がお金を持ち逃 げしてしまっていた。
 そこで、黒人有志の呼びかけによって、寄 付を募った。ベッシ−の大ファンだったジャ ニス・ジョプリン(この年に亡くなった)が 費用の半額を負担した。
 墓碑にはこう刻まれている。
「世界でもっとも偉大なブル−ス・シンガ− は永遠に歌い続ける」  

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