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ロ−レン・バコ−ル(女優) Lauren Bacall
1924.9.16−−
まなざし the look
ロ−レン・バコ−ルは、一九二四年九月、
ベティ・ジョ−ン・バ−スキ−として生まれ
た。彼女が八歳のときに両親が離婚すると、
母親はもとのバコル(Bacal)に戻った
。アヒルの鳴き声(cackle)と韻を踏
んでバクルと呼ばれ続けることに我慢できな
かったベティは、lをもうひとつ付け加えて
バコ−ル(Bacall)にした。
ボギ−こと、ハンフリ−・ボガ−トはベテ
ィをブッチ、サム、マイク、フィッシュ・フ
ェイスなどと呼んだが、彼がもっとも好んだ
ニックネ−ムはベイビ−だった。祖母はベテ
ィレンと呼んでいた。
脚本家のジョ−ジ・S・カウフマンは、リ
トル・スティンカ−(性悪娘)と呼んだ。ス
タジオの重役はロ−レンという芸名を名乗ら
せたが、友人たちはいつまでも彼女をベティ
と呼び続けたのだった。
彼女はいつも女優になりたいと思っていた
が、看護婦や新聞記者になろうという考えが
一瞬頭をかすめたこともある。
新聞記者になりかったのは、「自分の名前
が新聞に載っているのが見たかったから」だ
った。演劇学校にかようはずだったが、実際
の経験を積んだほうがいいと考え中退した。
ブロ−ドウェイの劇場で案内係として働き
ながら舞台の勉強に励んだ。また、業界人が
集まるサ−ディ−ズ・レストランの前で演劇
新聞の売り子をしていたが、彼女がプロデュ
−サ−やキャスティング・エ−ジェントに面
と向かって「私、女優なんです」と言ったと
ころで、そんなことに慣れっこになっている
彼らは「見た目は完璧だね」と答えるだけだ
った。
短いあいだだが、モデルもやったバコ−ル
は、『ハ−パ−ズ・バザ−』誌の表紙を飾っ
たこともある。外見に自信がもてなかった。
自分の顔については、「朝起きるたびに自分
の顔が嫌いになっていった」と彼女は書いて
いる。
最初につきあった男のなかには、カ−ク・
ダグラスもいた。ダグラスがまだ貧乏な演劇
研究生だったころの話だ。バコ−ルは彼にコ
−トを贈っている。
一九四三年の夏、ベティ・ジョ−ン・バコ
−ルは、ハワ−ド・ホ−クスの秘書から連絡
を受けてハリウッドに飛んできた。『ハ−パ
−ズ・バザ−』誌の写真を見て、監督がぜひ
会いたいと言った。その伝言が間違って伝え
られたのか、バコ−ルはすぐにでも、カメラ
テストを受けられるものと思ってしまった。
十九歳のバコ−ルは甲高い、鼻にかかった声
で喋った。
彼女の熱意に動かされて、ホ−クスはカメ
ラテストを受けさせることにして、昼食に誘
い、低い声域で話す練習をした。バコ−ルは
熱心に何時間も大声で台詞を繰り返した。結
局、ホ−クスは熱意にほだされて契約を結ぶ
ことになった。
ホ−クス監督が作り出したのは、「傲慢な
女、ボギ−と同じくらい傲慢で、人に対して
無礼な態度をとり、そこでにやりと笑うよう
な女性」だった。それが、『脱出』のマリ−
である。
スクリ−ンテストを終えたバコ−ルにボギ
−は「おめでとう。いろいろと楽しくやれそ
うだね」と声を掛けている。
バコ−ルはボガ−トに紹介される前に「あ
んな教養のない男と共演するなんて冗談じゃ
ないわ。まともに考えたり喋ったりすること
もできそうにない男となんて」と言っていた
のだが。
ボギ−は当時四十四歳で既婚者だった。バ
コ−ルは十九歳。
二人がボガ−トのヨット、サンタナ号で会
っていると、そこへいきなりボガ−トの妻の
メイヨ・メソットがやってきた。ボギ−が妻
をうまく言い含めて追い返すまで、バコ−ル
はバスル−ムに隠れて、息をひそめていたの
だった。
『脱出』(ヘミングウェイの『持つものと持
たざるもの』の映画化)の撮影が終わると二
人が一緒にいる口実がなくなった。だが、ホ
−クス監督と会社の幹部は二人の仲を映画作
りに利用することにして、『三つ数えろ』で
共演させることにした。
『三つ数えろ』は、『マルタの鷹』を下敷き
にした。一九四五年一月に予定よりも、大幅
に遅れて完成した。誰も満足のいく結果では
なかった。そこで、さらにバコ−ルとボギ−
の関係を強調するような場面を付け加えるこ
とになった。
同じ年の五月二十一日に、友人の所有する
オハイオ州のマラバ−農場で、バコ−ルとボ
ギ−の結婚式が行われた。
結婚式は、ボギ−が『第二の妻』の撮影を
している合間を縫って行われたし、バコ−ル
も数日後には次の作品『密使』の撮影に入る
ことになっていた。
そのときボギ−は四十五歳、バコ−ルは二
十一歳になったばかりだった。二人は式の間
中、感極まって泣き通しだった。
『三つ数えろ』は、一九四六年八月に公開さ
れて、ヒットし、これで先に公開された『密
使』での悪評を、バコ−ルは払拭することが
できた。
第二次世界大戦が終わると、アメリカにイ
デオロギ−旋風が吹き荒れ始めた。反共主義
(マッカ−シイズム)がハリウッドにも圧力
をかけるようになった。非米活動委員会は、
「破壊活動的な」映画とされる作品のリスト
を作成して、総勢十九人の監督、俳優、プロ
デユ−サ−、脚本家をワシントンで行われる
公聴会で証言させることにした。
そのなかには、『カサブランカ』の共同脚
本家、ハワ−ド・コッチなどもいた。
バコ−ルもボギ−も猛反対した。
バコ−ルは自分の主張をワシントンの『デ
イリ−・ニュ−ズ』紙に掲載した。
「ハリウッドを襲った恐怖は、読者には想像
できないでしょう。プロデュ−サ−も、監督
も、脚本家も映画を作ることを恐れているの
です。何を言っても何をしても、ここに召喚
されている人たちと同じ容疑をかけられて、
告発されることになりかねないからです。そ
の結果、大人の良質な娯楽は、投げ捨てられ
て、凡庸な企画ばかりが流れこんでくる」
とバコ−ルは結んでいる。
バコ−ルは完璧主義者だといわれていた。
どんな細かいことでも、彼女にとっては大事
だった。
「みんな私のせいできりきり舞いしてたね。
わたしを許してくれてるといいんだけど」
彼女は多くの意味で、ボギ−と深い関係に
あった。彼女と共演していたころ、ボギ−は
数年間で五百万ドルを保証される契約をスタ
ジオと結ぼうとしていた。しかし、実際の金
額は合計四九九万九、九九九ドル二十五セン
トだった。金額の食い違いに落胆したボギ−
は会合の場から立ち去ろうとしたが、そのと
き、スタジオの顧問弁護士がポケットに手と
入れ、二十五セント硬貨を三枚取り出しテ−
ブルに置いた。その硬貨を弁護士のポケット
に入れたのは、バコ−ルだった。
「バコ−ルをとったら、ボギ−はたんなる気
のいい男だ」
そのボギ−は、一九五七年に五十七歳で亡
くなった。最後の言葉は「グッバイ・キッド
」(さよなら、おまえ)だった。
バコ−ルとボギ−は四本の映画で共演した
。二人の子どもをもうけた(一男一女)。ボ
ギ−がガンで亡くなってから、彼女はフラン
ク・シナトラと深い関係になったが、二人が
結婚するという噂が流れると、シナトラは別
れ話を切り出した。バコ−ルがシナトラの頭
にふり下ろしたワイングラスが割れたとき、
二人の関係にエンドマ−クが出された。
「シントラは歌うだけでしゃべらなければよ
かった」
一九六一年に、ジェ−ソン・ロバ−ズと結
婚したが、八年後に、夫のアルコ−ル中毒に
腹をすえかねてバコ−ルが「ウォッカの瓶を
なげつけて」離婚した(彼との間には、一男
をもうけた)。
「ボガ−ト夫人の二人目の夫でいることにう
んざりした」とロバ−ズは語っている。
また、バコ−ルのファン雑誌には、彼女は
「ガムとア−ティチョ−クが好きで、化粧や
マニキュアが好きではない。ピアノを弾くの
が好き」と書かれている。
『ルック』誌に掲載された写真は有名で、顎
を引いた上目遣いの視線には独特の官能美が
感じられる。
「イライラして首を振る癖を直す方法を探し
ているときに生まれもの」
有名な低くハスキ−な声は、キャットフ−
ドや洗剤や船旅のTVコマ−シャルのナレ−
ションにも重宝された。彼女が映画で歌った
歌はアンディ・ウィリアムズの吹き替えだと
いう噂はウソで、スタジオには彼女が自分で
歌を吹きこんだという記録が残されている。
ボギ−亡きあと、バコ−ルが映画で大当た
りする見込みはまったくなかった。彼女はブ
ロ−ドウェイに転向し、芸術的にも、興行的
にも成功したいくつかの作品に出演し、トニ
−賞も二度受賞している。一九六六年の『マ
ンハッタン・ラプソディ』での演技は、アカ
デミ−助演女優賞まちがいなしといわれたが
、結局受賞できなかった。
バコ−ルはボギ−にもらった小さな金の笛
を一緒に埋葬した。これは彼がバコ−ルと恋
に落ちたのはこのときだ、とされる台詞のや
りとりを象徴するものだった。
「笛の吹き方は知っているでしょ? ただ、
唇を閉じ合わせて、息を吹きこむだけでいい
のよ」
バコ−ルはボギ−がいなくても、バコ−ル
である。
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