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グレ−ス・ケリ−(女優) Grace Kelly
1928.11.12−−1982.9.14
虚飾 vanity
グレ−ス・ケリ−は白い手袋をして、とり
すましたイメ−ジがあるが、「誰とでも寝る
」ことで知られていた。特に共演者と。
クララ・ボウは、こう言っている。
「いまだったら、売春婦といわれているわ。
でも、グレ−ス・ケリ−は大勢の恋人とうま
くやっていけるの。どうしてかって? 愚か
な大衆はそんなこと絶対に信じないからよ」
グレ−ス・ケリ−は一九二八年十一月、フ
ィラデルフィアに生まれた。父のジョン・ブ
レンダン・ケリ−はアイルランド系二世で煉
瓦会社を経営し、フィラデルフィアの市長選
挙にも出たことのある名士だった(一九二〇
年アントワ−プ・オリンピック、スカルのゴ
−ルドメリスト)。母マ−ガレットはドイツ
系で若いころ、モデル、テンプル大学体育科
卒のトップスイマ−。
四人きょうだいで、グレ−スはその三女。
ダンスを三歳から、バレエを十歳、その後ピ
アノ、声楽を習い、十一歳で舞台に立った。
姉妹の中では際立って美人で勝気なグレ−ス
は十八歳のとき、ハイスク−ル卒業後、女優
になる決心をする。
父の反対を押し切って、ニュ−ヨ−クのア
カデミ−・オブ・ドラマティックア−ツ(キ
ャサリ−ン・ヘプバ−ン、ロ−レン・バコ−
ル・スペンサ−・トレ−シ−などを輩出した
名門俳優学校)に入学した。
レイモンド・マッセイ主演、ストリンドベ
リ作『父』の舞台で端役をつとめたところ、
二十世紀フォックスの目に留まって、五一年
に映画『十四時間』(日本未公開)に出演し
た。
グレ−スはこのとき、二十一歳、人妻の役
である。その後、二十七歳までの五年間に十
一本の映画に出演したが、七本が人妻、もし
くは結婚歴のある女性の役だった。
『十四時間』を観たスタンリ−・クレイマ−
監督が『真昼の決闘』にグレ−スを抜擢した
。初老の保安官役を演じたゲ−リ−・ク−パ
−に二度目のオスカ−をもたらした西部劇だ
ったが、ういういしく勝気な若妻を演じるグ
レ−スが注目された。
ついで、ジョン・フォ−ド監督の『モガン
ボ』(五三年)に出演した。エヴァ・ガ−ド
ナ−の妖艶さよりも、ファンはグレ−スの知
的で、冷たい美貌に魅了された。
グレ−スの魅力にアルフレッド・ヒッチコ
ック監督が注目した。
『ダイヤルMを廻せ!』では誤って殺人を犯
す役だが、可憐さゆえに観客の同情を買うの
である。続いて『裏窓』は、勇気をもったヤ
ンキ−娘だ。
翌年の『泥棒成金』ではグレ−スは豪華な
ドレスに身を包んで洗練されたロマンティッ
クな女性を演じた。
一九五四年に『喝采』で、アカデミ−賞主
演女優賞を受賞する。アル中の夫を舞台に再
起させるために、悪妻をよそおう。その一方
で、演出家との愛に苦しむ女を演じた。五六
年には『白鳥』と『上流社会』に出演し、豪
華でロマンティックな役を演じた。
スクリ−ンから受ける彼女のイメ−ジは気
品に溢れてどこか近寄りがたい感じがする。
だが、実際のグレ−スは、多くの男たちとロ
マンスを噂された。もともと、『モガンボ』
で共演したクラ−ク・ゲ−ブルには性的な関
係というよりは、父親的な存在を求めた。
『ダイヤルMを廻せ!』では、レイ・ミラン
ドと噂になった。『喝采』のビング・クロス
ビ−とも噂されたが、これはハリウッドの宣
伝マンが作ったものだ。
真実味をおびているのは、『泥棒成金』の
衣装デザイナ−、オレグ・カッシ−ニとのロ
マンス。あるいは一九五五年のカンヌ映画祭
で出会ったフランスの俳優ジャン=ピエ−ル
・オ−モンとの交際はより真剣なものだった
。そのカンヌ映画祭で、モナコ公国宮殿や海
洋博物館などのルポルタ−ジュ記事をグレ−
スがゲスト記者として書いていたとき、レ−
ニエ国王と知り合ったのである。
グレ−スは一目惚れだったという。彼女は
母に電話をして、レ−ニエと愛し合っていて
結婚したいと思うと告げた。しかし、婚約す
る前にいくつかの難問があった。まず、第一
にグレ−スがモナコ大公の世継ぎを生めるか
どうか医学的に証明しなければならない。検
査の結果が出れば、自分が処女ではないこと
がわかってしまうと心配した。
二十六歳の女優がほんとうに処女だとレ−
ニエが思っていたとは信じがたいが、一九五
五年当時は、その年齢でも処女の女性はかな
りいたようだ。あるいはレ−ニエはまるで尼
僧のように、純潔とか貞節は彼女のためにあ
ると思いこんでいた。敬虔なカトリックの家
庭」で育ったことを知っていたからだ。顔だ
け見れば、清純無垢な女性と思ったとしても
不思議ではないだろう。
グレ−スは高校時代にホッケ−をやってい
てそれで処女膜に傷がついたと医師に説明し
た。
一九五五年十二月、レ−ニエはフィラデル
フィアのケリ−邸を訪れて、両親に求婚の挨
拶をした。翌、五六年一月五日に、モナコ公
国から婚約が発表された。まだ撮影中の『上
流社会』は、急ピッチで進められた。そんな
折り、グレ−スの母が新聞記者のインタビュ
−を受けて娘の私生活を暴露したのだ。
「幼いころは病弱で目立たなかったが、十五
歳にあるころには、何十人ものボ−イフレン
ドがいました」
グレ−スが親しくしていたボ−イフンドの
名前が列記されていた。
そのなかには、クラ−ク・ゲ−ブル、ビン
グ・クロスビ−、レイ・ミランド・オレグ・
カッシ−ニなどの名前があがっていた。
ショックを受けたグレ−スは母を表向きは
無視する形をとっていたが、詰問した。
グレ−スの父はアイルランド系移民で地元
の英雄だった。厳格で完璧主義だった。
「父に喜んでもらう。認めてもらうのが嬉し
かった」
レ−ニエ公との結婚に際して、ヒッチコッ
ックは「こんな大役を手に入れるなんて、グ
レ−スも成長してもんだ」と皮肉った。
四月四日、グレ−ス一行は、ニュ−ヨ−ク
港を出発した。八十個以上の荷物、ペットの
オリバ−(犬)、報道陣は四千人だった。
八日後モナコに着くと、レ−ニエがレオ・
ジュバンテ号(ヨット)で出迎えた。紅白の
カ−ネ−ションがまき散らされた。
結婚式は二日間にわたって行われた(四月
十八日)。一四二の称号を読み上げるのに、
四十分かかった。ウェディング・ドレスは、
アカデミ−賞デザイナ−のヘレン・ロ−ズ。
ハネム−ンは七日間の地中海旅行。
グレ−スはモナコ公妃グラシア・パトリシ
ア殿下となり、やがて二男一女の母となった
。
一九七〇年代半ばを過ぎたころから、グレ
−スは、神経の疲れることが重なっていた。
一つは娘のステファニ−のこと、彼女はまだ
十七歳だったが、ボ−イフレンドとのことで
しょっちゅう問題を起こし、口論が絶えなか
った。さらに夫との不和。
また、自分自身が四十歳になろうとしてい
た。四十歳になったら、おしまいと思ってい
たし、映画への未練もあった。いろいろなこ
とを忘れるため、ストレスから逃れるために
アルコ−ルに依存していった。
体重が増えて、だらしなく酔い、服装が乱
れ、化粧がくずれていても平気だった。
一九八二年九月十三日、月曜日の朝は好天
で、グレ−スはブラウンのロ−バ−に手直し
するドレスを積みこんで、娘のステファニ−
を乗せて、デザイナ−に会うために運転して
いた。いつもは、お抱えの運転手がいるのだ
が、三人では狭いので、彼女が運転すること
になったのである。ロック・アンジェルから
モナコまでの道のりは曲がりくねったカ−ブ
が多い。午前十時五分。彼女はカ−ブを曲が
りそこねた。
ステファニ−は怪我をしていたが、意識は
あったので、「お母さまを助けて−−」と車
から這いだして助けを求めた。グレ−スは座
席の中央に仰向きに横たわり足はフロントガ
ラスから突き出していた。
十三日夜から十四日の朝まで、グレ−スの
昏睡状態が続いた。医師から脳死が伝えられ
ると、悲しみにうちひしがれた家族は、彼女
の生命維持装置のスイッチを切ることを許可
した。一九八二年九月十四日のことだった。
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