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ジェ−ン・フォンダ(女優) Jane Fonda
1937.12.21−−

変形 metamorphosis

「変革というのは、世の中で一番むずかしい こと。私が人びとに求めた最初のもの」
 彼女は活動家、映画スタ−。エアロビのソ ックスがずり落ちるのを合図に、宗旨替えを することができる。
 ジェ−ン・シ−モア・フォンダは、一九三 七年、ニュ−ヨ−クに生まれた。父は俳優の ヘンリ−・フォンダ、弟も俳優でピ−タ−・ フォンダ。彼女が十二歳、弟のピ−タ−が九 歳のときに母(ヘンリ−の二度目の妻)のフ ランシス・シ−モアは精神病院で自殺した。 夫の浮気を苦に投身自殺したのだ。
 勝気なジェ−ンは、母が自殺した悲しみを 死に追いやった父のヘンリ−への憎悪に向け ていった。父はその後も、結婚、離婚を重ね て、最後は娘のジェ−ンよりも年下の元スチ ュワ−デスと五度目の結婚をした。
 母の自殺以後は、おてんば娘から内気な社 交嫌いな娘になっていた。名門のヴァッサ− 女子大に入学したが、男の子とデ−トをする のが恐かった。
 ジェ−ンは大学を中退して、絵画の勉強の ためにパリに飛び出した。だが、これは父に 連れ戻されて、この自由なパリの生活は半年 ともたなかった。
 ニュ−ヨ−クに戻った彼女は、ファッショ ンや写真のモデル、プロダクションの秘書の ような仕事をした。モデルとして『エスクワ イア』『ヴォ−グ』『レディ−ス・ホ−ム・ ジャ−ナル』など各誌の表紙を飾った。
 そのころ、ジェ−ンはアパ−トの近くのア クタ−ズ・スタジオに通い始めた。リ−・ス トラスバ−グが主宰しており、ジェ−ムス・ ディ−ンやマ−ロン・ブランド、あるいはマ リリン・モンロ−などが通った有名な俳優養 成所である。
 一九六〇年には、ジョシュア・ロ−ガンに 認められて、『のっぽ物語』でアンソニ−・ パ−キンスと共演。女子学生の役でハリウッ ドデビュ−を果たしたのだった。この年、「 明日のスタ−」ナンバ−・ワンに選ばれてい る。将来は嘱望されてはいたものの、瓜二つ といっていいほどよく似た父の影から逃れら れないのを嫌い、再びパリに渡った。
 一九六三年フランスから『危険がいっぱい 』への出演依頼が舞いこんだ。これを機会に ハリウッドを脱出した。共演者のアラン・ド ロンに恋をしたが、彼は年上の未亡人のほう に夢中だった。そこに登場するのがロジェ・ ヴァディム監督だ。彼はブリジッド・バルド −、カトリ−ヌ・ドゥヌ−ヴを女優としてだ けではなくて、女としても開花させたなうて のプレイボ−イである。
 一九六四年にヴァディム監督の『輪舞』に 出演し、翌年の八月に二人は結婚した。典型 的なヤンキ−娘だった彼女が華麗なるエロテ ィシズムを発揮する美女に変身したのである 。『獲物の分け前』『世にも怪奇な物語』『 バ−バレラ』など、次々とヴァディム監督の 作品に出演するようになる。
 一九六八年九月には娘のヴァネッサを出産 して、幸福感を味わった(この名前は、女優 ヴァネッサ・レッドグレ−ヴの生き方にあや かって命名した)。だが、父ヘンリ−・フォ ンダは最後までこの結婚を許さなかった。  ヴァネッサの生まれたその年は、キング牧 師に続いてロバ−ト・ケネディが暗殺されブ ラック・パンサ−が台頭、シカゴの民主党大 会で警官が学生のデモ隊を逮捕した。そのと き逮捕されたシカゴ・セブン(過激派集団) の一人がのちの夫トム・ヘイドンである。ア メリカのヴェトナム戦争介入はエスカレ−ト していた。
 フランスでは五月革命が起こり、社会は激 動していた。ジェ−ンはのこのままのんびり と「セックス・シンボルを演じているわけに はいかない」と思った。
 テレビ画面では反戦デモのニュ−スが流れ ており、歌手のジョ−ン・バエズの姿を見て アメリカに帰る決心をする。アメリカのため に何かをしなくては−−。
 一九七〇年一月に、アメリカ・インディア ンがサンフランシスコのアルカトラス島を占 拠した記事を報じたピ−タ−・コリアととも に、アルカトス島を訪れた。ジェ−ンは本格 的に政治活動を始めた。ホワイトハウス前の 大規模な反戦デモに参加、八千五百人の先頭 に立ち逮捕された。
 こうしてジェ−ンはアメリカ・インディア ンの問題や黒人運動、ヴェトナム反戦と政治 活動を深めていった。マイクを握り「アメリ カはヴェトナムから手を引け」と叫んだ。こ のため、ジェ−ンはハリウッドではアカ(共 産主義者)のレッテルを貼られた。のちに暴 露されたニクソンのブラック・リストに載っ た。
 一九七一年、ドナルド・サザ−ランドらと ともに反戦演劇集団FTAを結成し、アメリ カ国内基地、フィリピン、日本の各基地を巡 回した。
 一九七二年四月十日、『コ−ルガ−ル』で アカデミ−主演女優賞を受賞した。受賞が決 まったとき、会場では拍手とともにブ−イン グの声があがった。舞台に上がったジェ−ン はこう言ったのだった。
「言いたいことはいろいろあります。でも、 ここではサンキュ−とだけ言わせてもらいま す」
『コ−ルガ−ル』を最後にハリウッドから締 め出された。
 FBIやCIAなどからさまざまな形の脅 迫を受けた。ジェ−ンの長距離電話と電報が 国家安全保障理事会によって妨害された(ジ ェ−ン監視の政府命令は、ニクソン大統領か ら出されたものであろう)。が、ジェ−ンの 反戦活動は続けられた。
 一九七二年四月二十一日、ロサンゼルスの 反戦運動のデモのとき、ジェ−ンとトム・ヘ イドンは出会った。
「神秘的な魅力をもった男だった。彼の発散 する香りにめまいに似た興奮を覚えた」
 そしてジェ−ンはトム・ヘイドンとともに マクガバン大統領候補を支援するために全米 各地をまわった。
 一九七三年一月には、ロジェ・ヴァディム と離婚して、その四日後にはヘイドンと結婚 したのである。二人は生まれてきた子どもに ヴェトナム語で平和を意味するトロイと名付 けた。
 ジェ−ンが女優としてカムバックするのは 一九七七年の『ジュリア』である。これはヴ ァネッサ・レッドグレ−ヴと共演。自立した 二人の女性を描いた映画だ。
 ジェ−ンは劇作家リリアン・ヘルマンを演 じた。長年のパ−トナ−であった作家のダシ −ル・ハメット(ジェイソン・ロバ−ツが好 演した)との葛藤、そしてジュリア(ヴァネ ッサ・レッドグレ−ヴ)との女性の友情をみ ごとに演じたのである。
 続いて、一九七八年、自分の製作会社IP Cの第一回作品として『帰郷』を完成させ、 これで二度目のアカデミ−主演女優賞を受賞 した。
 このとき、ジェ−ンはこうスピ−チした。 「賞を受けたのは、家族の温かい支援のたま ものです」
 一九八一年、ジェ−ンは父ヘンリ−・フォ ンダのために『黄昏』をプロデュ−スした。  七十歳を過ぎても、なおアメリカ最高の女 優としてあらゆる女優から尊敬を集めている キャサリ−ン・ヘプバ−ンと父ヘンリ−を共 演させることはジェ−ンのひとつの夢だった 。
 この映画でヘンリ−はアカデミ−主演男優 賞を初めて受賞した。長い反目ののちにジェ −ンは父とようやく和解ができた。
「父のことをとっても誇りに思っています」
 父に代わってオスカ−像を受賞したジェ− ンの表情は、かつての彼女からは想像もでき ないやわらかなものだった。
 翌年の八月、ヘンリ−は死去した。
 ジェ−ン・フォンダは、トム・ヘイドンと も別れ、反戦運動や環境問題に取組んだ。
 その後はエアロビクス・ヴィデオを製作し て話題を巻いた彼女が三度目の相手に選んだ のは、メディア界の「風雲児」といわれるC NN会長のテッド・タ−ナ−である。  ジェ−ンはこのところ、すっかり映画とも 遠ざかってしまった。タ−ナ−夫人としての 地位に安住してしまったのだろうか? 次に またどんな華麗なる変身をとげるのだろうか ?

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