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ロミ−・シュナイダ−(女優) Romy Schneider
1938.9.23−−1982.5.29

悲惨 tragic

 ロミ−・シュナイダ−は『郷愁』『夕なぎ 』での好演で知られるが、やはり彼女は、「 アラン・ドロンの恋人」といったほうがわか りやすいだろう。
 一九三八年に、ロミ−・シュナイダ−こと ロ−ゼマリ−・アルバッハはウィ−ンに生ま れた。母のマグダ・シュナイダ−、父のヴォ ルフ・アルバッハ=レッティ−ともに俳優だ った。両親が映画出演で忙しかったためにロ ミ−は祖父母の手で育てられた。
 ロミ−が小学校に入学した一年後に、両親 は離婚、母はのちに再婚した。母のマグダは 言う。「乳母車に安全のためにベルトを掛け て乗せると、とても嫌がりました。自由を縛 られるのが嫌というのは、それからずっと変 わりませんでした」
 一九五三年七月、ゴルデンシュタイン寄宿 学校を卒業した三日後に、ロミ−は母マグダ に言われて、ミュンヘンの撮影所で、『リラ の花がまた咲くとき』のカメラテストを受け て合格。マグダの娘の役だった。ロミ−は、 十四歳で、女優としての第一歩を踏み出すこ とになる。
 一九五五年から『プリンセス・シシ−』三 部作で明るい負けん気の王妃を演じて人気を 呼んだ。しかし、ロミ−はいつも同じ予算と 顔ぶれで作る映画に不満だった。
 だが、このシリ−ズが国内外で大成功を収 めたので、ロミ−のもとには同じような役ば かりくるようになった。自由に生きたい彼女 にとっては、もっとも意にそぐわないことだ った。独立したい、自由がほしい、自分の意 思で出る映画を選びたいと考えた。
 そんなロミ−に思いもよらない運命が待ち 受けていた。一九五九年三月、『恋ひとすじ に』の共演者に二十三歳の青年、アラン・ド ロンが選ばれたのだ。当時はロミ−のほうが 人気が高く、空港に花束をもって迎えにきた アランに、「どなたかしら?」と聞いたほど だ。
 アランにとっても、ロミ−はいままで彼が 付き合ってきたどの女性の好みにも当てはま らなかった。育ちが良くて、素直で、清楚な 感じがする。下積み時代、多くの女を踏み台 にしてきたアランにとってロミ−は新鮮な驚 きだった。二人はなんとか両親の反対を説き 伏せて婚約までこぎつけたが、ドイツ・オ− ストリアの映画界は大きな衝撃を受けた。
 この年、ロミ−は契約どおりに『地上の天 使』『美しき嘘つき』『カ−チャ』に出演し たが、その後は映画の話がこなくなったので ある。
 しかし、アランのほうは、ドイツ・オ−ス トリア映画界のプリンセスと婚約したことで 演技にも磨きがかかり、人気が爆発した。 『お嬢さんお手やわらかに!』『太陽がいっ ぱい』『若者のすべて』など立て続けに大ヒ ットを飛ばした。
 ロミ−は作品選びに失敗したうえに、ドイ ツの学生に世界ワ−スト女優一位に選ばれて しまった。ロミ−はアランと一緒にいたいば かりに、本気で作品を選ばなかった。もしこ のままいけば、ロミ−はアラン・ドロンの夫 人ということで、一生を終わったかもしれな い。
 ところが、イタリアの名演出家で、映画監 督の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティがロミ− の才能を惜しんだ。
 アラン・ドロンの婚約者というだけの存在 になりつつあったロミ−をヴィスコンティは 、まずエリザベス朝戯曲の『あわれ彼女は娼 婦』の舞台に出演させる。このテアトル・ド ・パリの舞台に立ったことで演技力のある女 優として認められた。
 さらにこの年、同じヴィスコンティの『ボ ッカチオ’七〇』に出演した。この映画でロ ミ−は高い評価を得た。コロンビア映画と契 約を結んだことで、彼女の活躍の舞台は国際 的なものになった。
 一九六三年には『枢機卿』『ちょっとご主 人貸して』、六四年には『何かいいことない か子猫ちゃん』、六五年には『夏の夜の十時 三〇分』に出演した。
 経済的にも恵まれ、ロミ−はハリウッドの 高級住宅街のベヴァリ−ヒルズの豪邸に住む ようになった。
 しかし、長期間離れて暮らすことが多くな るとアランとの関係もおかしくなってきた。 彼は当時スクリプト係だったナタリ−・バル テミ−(のちの女優ナタリ−・ドロン)と恋 仲になってしまったのである。彼はロミ−に 別れの手紙を送り、ナタリ−と結婚式を挙げ た。
 六年間続いた、アランとロミ−の長すぎた 春は終わりを告げた。
 ロミ−もそれから二年後に、結婚した。相 手は二十七歳の彼女より十四歳も年上の映画 俳優で監督のハリ−・マイエンである。
 二人の間には、息子のダ−フィトが生まれ た。そんなときアラン・ドロンから共演の話 しが舞い込んだ。『太陽が知っている』とい うサスペンス映画。この映画は大成功だった が、私生活では夫のハリ−とはうまくいかな くなっていた。
 二人は結婚から六年後に、離婚した。この とき、ロミ−はハリ−に対して、約百五十万 マルク(約一億八千万円)もの慰謝料を払っ ている。
 その後のロミ−は『ル−ドウィッヒ』『夕 なぎ』『離愁』などで女優としての地位を確 固たるものにした。そして三十七歳、私生活 の空白を埋めるかのように彼女はダニエル・ ビアシ−ニと再婚した。彼は定職がなく、ジ ゴロのような生活を送ってきた男だった。
 結婚するとダニエルはロミ−の秘書役をつ とめ、財産を管理をした。
『追想』など女優として幸運が続いたが、私 生活では恵まれなかった。
 前夫のハリ−がアルコ−ル中毒のせいで自 殺をした。いかに前夫とはいえ不慮の最後を とげたのである。ロミ−にとってはショッキ ングな事件だった。
 またロミ−はダニエルとも離婚することに なった。
 一九八一年、ロミ−は腎臓の摘出手術を受 けたが、退院後、すぐに仕事に復帰した。  その間、十四歳になる息子のダ−フィは祖 父母のところに預けてあった。少年は外出先 から戻ると、ベルを鳴らさずに鉄柵を巡らせ てある門をよじ登った。が、バランスを崩し 尖った柵の先が彼の腹に突き刺さったのだ。 応急手当てを受けたが、手遅れだった。
 離婚、病気、そして息子の悲惨な死。ロミ −は打ちのめされ、酒に溺れる日々が続いた 。悲しみを忘れるかのように『サン・ス−シ の女』に出演したが、悲しみはますばかりだ った。
 愛息の死から、十カ月後、ロミ−はボ−イ フレンドのアパ−トで心臓麻痺で急死した。 四十三歳だった。
 アラン・ドロンはこんな言葉を贈った。 「ぼくのビュプレ(ロミ−の愛称)。ぼくは きみをじっと見る。もう一度。こうしていつ までも見ていたい(中略)ゆっくり休むんだ 。ぼくはここにいる(中略)愛している。愛 しているよ。ぼくのビュプレ」
 遺体は息子が眠る墓地に埋葬され、そこに はロミ−の本名「ロ−ゼマリ−・アルバッハ 」と生年月日が刻まれているが、息子の墓碑 には、死亡の日付は刻まれていない。
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