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エマ・ゴ−ルドマン(社会運動家)Emma Goldman
1869.6.27−−1940.5.14
無政府主義 anarchism
「仕事を要求せよ。仕事がもらえなければ、
パンを要求せよ。どっちももらえなければ、
パンを奪え。それが侵されざる権利というも
のだ」
エマ・ゴ−ルドマンは、アメリカにおける
無政府主義の煽動者、編集者、講演家であり
各種の社会的、政治的運動の支援に、その一
生を捧げた。
「温室の住人たちは、ついあたりかまわず、
石を放りなげてしまう。しかも、アメリカの
温室はガラスがとても薄く割れやすいため、
なかはきれいに片づいていたためしがない」
彼女が味方したのは男女同権、産児制限、
言論の自由、労働者の権利、自由恋愛。反対
したのは戦争、徴兵制度、大資本の搾取、そ
して政治全般である。
仲間にも敵対者にも「赤のエマ」の呼び名
で呼ばれた彼女は不平等のあるところすべて
に赴き、牙をむいた。
エマは検挙、投獄、国外追放の処分を受け
た。FBI長官のエドガ−・フ−バ−は「世
界で最も危険な女」と呼んだ。
現在のリトアニア東部のコブノで、逆境に
あえぐユダヤ人の家庭に生まれた。エマは、
幼いころから、絶対的権力をふるう父親や学
校教師に、強い反抗心を抱いた。
父のエブラハムが十五歳で、エマを嫁にや
ろうとしたとき、彼女はもっと学業を続けさ
せてほしいと懇願した。父は彼女の教科書を
川に投げこみ、「女に学問はいらない。ユダ
ヤ人の娘は魚肉ダンゴの料理ができ、ヌ−ド
ルをきちんと切れて、子どもをたくさん産み
さえすれば、それで充分」と言った。
だが、翌年、エマは姉のヘレナとアメリカ
に一緒にわたることを父に認めさせた。学校
をやめさせられ、コルセット工場に働きに出
されていたエマが、ネヴァ河に身投げをする
と言って本気で脅したため、父親は仕方なく
譲歩したのである。
ヘレナとエマは、ニュ−ヨ−ク州ロチェス
タ−に住んでいたもう一人の姉、リ−ナを頼
ってアメリカにわたった。自由と平等の国と
して夢に描いたアメリカだが、周囲のユダヤ
系移民の多くが、惨めな暮らしと過酷な労働
条件を強いられているのを知って、エマは失
望した。
エマは自らも劣悪な条件のもとで働きなが
ら、ドイツ社会主義者たちの集会に出て、ア
ナ−キズム(無政府主義)を学び始めた。政
府を廃し、任意の組合や連盟をもって、これ
に代えようとする理論だ。
一八八九年、アナ−キズム運動に参加する
ため、エマは五ドルと小さなハンドバッグだ
けをもって、ニュ−ヨ−ク市に移り住んだ。
やがてアナ−キストのヨハン・モウストの励
ましを得て、彼女は有力な弁士になる。
一八九二年五月、ペンシルベニア州ホ−ム
ステッドにあるカ−ネギ−製鉄会社の工場で
ストライキ中の労働者が、同社の会長ヘンリ
−・クレイ・フリックの雇った殺し屋ピンカ
−トン一味に射殺されるというニュ−スが伝
わった。アレクサンダ−・バ−グマン(通称
サ−シャと呼ばれていた。ロシア出身のアナ
−キスト)は憤怒にかられ、フリックの暗殺
を考えた。
だが、彼は銃をもっていなかったし、買う
金もなかった。エマは自分のからだを売って
その金を調達する決心をした。
ある日曜日の夜、彼女はニュ−ヨ−クの十
四丁目を歩いていたが、実際に男が寄ってく
ると、思わずひるんで逃げ出してしまう。よ
うやく、一人の背の高い紳士然とした男が、
彼女に声をかけ酒場に連れこんだ。
「さあ、これをもってお帰り」
男はエマに十ドル札を一枚握らせた。
エマは驚いたが、礼を述べて受け取り、ピ
ッツバ−グで待っているサ−シャに届けたの
だった。サ−シャはフリックを襲ったが、失
敗に終わった。彼は懲役二十年を言い渡され
た。
その年の十二月、エマはエドワ−ド・ブレ
イディと巡り合っている。ブレイディはその
時、四十歳。背の高いブロンドの髪。アナ−
キスト関係の本を出版したため、十年間をオ
−ストリアの獄中で過ごした後、アメリカに
着いたばかりだった。
一八九三年、エマはニュ−ヨ−クでの失業
者の集会で、買う金がなければパンを盗めと
呼び掛け、煽動罪を理由に、九カ月間投獄さ
れた。
アメリカとヨ−ロッパを遊説のかたわら、
エマは看護婦と助産婦の資格を取った。それ
は彼女の職業になると同時に、中絶や受胎機
能の停止を希望する貧しい女たちの切実な訴
えと、その実状をつぶさに知る機会にもなっ
た(マ−ガレット・サンガ−はエマの流れを
受け継いでいる)。
また、近代ヨ−ロッパ演劇も学び、彼女の
演説はイプセン、ショ−、ストリンドベリら
の作品をアメリカに紹介する上で大きな役割
を果たした。一九〇五年には、アナ−キスト
の雑誌『マザ−・ア−ス』の創刊に名を連ね
た彼女は、労働者の権利や言論の自由から、
女性解放や自由恋愛までにおよぶ問題を扱う
情報センタ−を立ちあげた。法がもたらす足
かせからの自由を訴えた(一九一七年に発禁
処分になるまで、その編集に当たった)。
その年の五月十八日に、サ−シャは出獄し
た。エマは母親のような愛情で彼を迎えたが
それがかえって彼の燗にさわった。
彼は深い憂鬱症に陥っており、ようやく生
きる力を回復したのは、ある十五歳の少女に
恋して以降のことだった。彼は『マザ−・ア
−ス』の編集を手伝った。
一九〇八年、エマと三十歳のベン・L・レ
イトマンとの十年間にわたる付き合いが始ま
っている。レイトマンは住居を定めない放浪
生活をしており、シカゴで「ホ−ボ−(放浪
者たち)の王者」として知られていた。彼は
エマを「青い眼のマミ−」と呼び、彼女はこ
の男を大きな子どものように扱った。実際、
レイトマンは子どもっぽい男だった。
二人が初めてベッドを共にした夜のことを
のちにエマはこう語っている。
「その夜の私は我ながら、まったく思いがけ
ないほとばしるような情熱に捉えられていた
。私の身内に宿るこのような情熱が男によっ
て引き起こされるとは夢想だにしませんでし
た」
この浅薄で無頼の男は、エマのマネ−ジャ
−になった。
一九一六年、エマは公開の場で産児制限賛
成論を説いて、十五日間、ニュ−ヨ−ク市の
刑務所に入れられる。
第一次世界大戦が始まったとき、エマと愛
人で終生の友であるサ−シャはアメリカの参
戦に反対し、徴兵忌避運動を展開した。この
ため、義務兵役法施行妨害の共同謀議を問わ
れて、二人は逮捕され懲役二年の刑を受けた
。刑期を終えたとき、エマはアメリカ市民権
を剥奪され、バ−グマンや他の危険分子は船
で強制送還させられた。
一九二〇年の一月、ロシアに着くとすぐに
エマとバ−グマンは、新しいボルシェヴィキ
政府とは相入れないことを知る。レ−ニンの
アナ−キスト狩りが始まり、エマとバ−グマ
ンは国外へ逃亡する。
一九二三年、エマは『ロシアへの幻滅』と
題する自由論者から見た社会主義体制批判の
書を出版した。一九三一年には、バ−グマン
の助力を得て、二巻からなる『自伝』を完成
している。
一九三四年に帰国を許され、何千という人
びとはエマの燃えさかる急進的な演説に耳を
傾けようになった。
ときの独裁者フランコと闘うスペイン人ア
ナ−キストたちのため、トロントで活動して
いる最中の一九七〇年に、エマは脳梗塞で、
この世を去った。
生涯を通じて、エマはあまりにもとげとげ
しく、妥協を許さなかったため、広く受け入
れられることはなかった。死後何年もたって
ようやく、あらゆる形態の自由を守ろうとす
る彼女のヴァイタリティあふれる姿勢が、そ
れに見あった評価を得られるようになってき
た。
「社会の病と渡り合うのに、極端すぎるやり
方などない。それに、真実とは往々にして極
端なものだ」
「よい政府などあったためしがない」
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