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追憶
マリリン・
モンロー

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シドニ−・ガブリエル・クロディ−ヌ・コレット(作家)
Sidonie−Garbrielle Colette

1873.1.28−−1954.8.3

放蕩 dissipation

 十代のころ、シドニ−・ガブリエル・コレ ットはパリのダンスホ−ルではしゃいでいた 。その豊富な経験から素材を得て、戯曲、映 画の脚本、評論、短編小説、長編小説など七 十三冊もの優れた作品を生み出した。
 コレットは実生活でも作品と同様にフラン スのセクシャルな女の二つの基本的なタイプ −−男を誘惑する女学生と、愛欲に悶える中 年女性を愛した。
 コレットの母シドニ−・コレットはかなり 開かれた心の持ち主(彼女の最初の夫は思想 家シャルル・フ−リエだった)と、文学青年 でもあった退役陸軍大尉の父との間に、フラ ンスのブルゴ−ニュ地方の小さな村に生まれ た。
 末っ子の愛称”ガビ”は、風変わりな子で 庭で草花を友とし、動物たちと遊ぶのが好き だった。膝の下に届くほど髪の毛を長く伸ば したコレットは二十歳のときに、一家の友人 である三十五歳の作家、アンリ・ゴ−チェ・ ヴィラ−ルと結婚した。
 ウィリ−と呼ばれた夫は、妻に走り書き程 度の日記を物語に展開するように勧めた。
 一九〇〇年から三年にかけて『クロディ− ヌ物語』と題された物語は、ベストセラ−に なった。バイセクシャルなロリ−タ、無邪気 で魅力的な女学生が描かれている。
 ウィリ−はコレットの最初の六冊の本を自 分の名前で出したが、それに対してコレット はコレット・ウィリ−という名前で官能的な 小説を書き始めた。
 また、夫の勧めもあって一九〇二年には自 慢の長い髪を切った(クロディ−ヌ・カット として流行した)。一九一七年にショ−ト・ カットが流行したが、そのときもコレットの 髪型は「スキャンダラス」として話題となっ た。
「男が家でたてる物音のなかで一家の主にふ さわしいものといえば、鍵の音くらいなもの だ。まだ、階段の踊り場にいるときに、鍵穴 を探してガチャガチャと立てる、あの音ぐら いだろう」
 夫のウィリ−は浮気を繰り返した。コレッ トが後をつけていって現場を押さえたことも ある。夫は「性に偏見がない」と言っている 妻に自分の愛人と関係を迫ったこともある。 だが、そのとき彼女は夫のホモの相手とも関 係ができてしまっていたという乱脈ぶりだっ た。
 それまでは、覆面作家ということで、コレ ットの名前は出なかったが、ウィリ−と離婚 した一九〇六年からは積極的に作品を発表し た。また、彼女はパントマイムの勉強もして 舞台に出るようになる。
「自分のやりたいことをやる。パントマイム やコメデをやりたい。レオタ−ドが動きを邪 魔したり、からだの線をだいなしにするなら 、裸で踊ってやる」
 一九〇七年、コレットはム−ラン・ル−ジ ュの舞台に立った。黒い瞳と女っぽくなった カ−リ−・ヘアのコレットはハ−レムの女奴 隷のように顔を布で被っていた。熟れた三十 代の肉体をさらけだし観客を興奮させた。
 その興奮がスキャンダルに変わったのは、 「ミイラが永遠の眠りから覚めて、包帯をほ どいて裸同然の姿でダンスを踊る」というコ レットが振り付けた舞踏『エジプトの夢』を 演じたときだ。コレットは王子に激しく抱き 締められる場面を演じたが、その王子はコレ ットの実生活での恋人ミッシ−だったのであ る。
 ミッシ−は本名エルブフ侯爵夫人で、ナポ レオン三世の子孫。コレットはウィリ−と別 れたあと、この名高いレスビアンのもとに身 を寄せ、一緒に舞台に立った。
 コレットと男装したミッシ−は、「愛ある 友情」と当時呼ばれていたものを楽しんだ。 コレットも当時の有名なレスビアンのパ−テ ィにタキシ−ド姿で出没したり、「私はミッ シ−のもの」という足輪を嵌めた。
 その他にも、コレットは詩人のナタリ−・ バ−ネイともレスビアンの関係にあったが、 こんなメッセ−ジを送っている。
「あなたの夫はあなたの手にキスするわ。そ して私は残りすべてに」
 やがてフランスの一流紙『ル・マタン』に エッセイを寄稿し始める。
 同紙の編集者、アンリ・ド・ジュ−ヴネル と、結婚(一九一二年十二月)、翌年の七月 に、コレットは四十歳で娘(愛称ベル・ガズ −)を出産した。
 愛称で呼ぶのが好きなコレットは、彼のこ とを「シディ将軍」と呼んでいた。
 前の夫と同様、シディ将軍も、浮気のし放 題だった。
「私の頭のなかは嫉妬心でいっぱいでした」
 この結婚生活も離婚で幕となったが、コレ ットの作家としての地位は一九二〇年に発表 した『シェリ』で高まった。『シェリ』の舞 台化では、主役のレアをみずから演じた。ま た同じ年に、栄誉あるレジオン・ドヌ−ル勲 章まで受けている。
 作品は、若くて美しい美青年シェリと元高 級娼婦レアとの物語だ。
 レアは五十代にさしかかった女性だが、お 屋敷で自由気儘な生活を送っている。彼女の 毎日をいっそう華やかなものにしたのは、二 十代に入ったばかりの愛人シェリの存在だ。
 シェリに若くて美しい娘との結婚話がもち あがる。それをレアは、むしろ勧めるのだ。 自分には、自信がある。何不自由のない生活 を送ってきたシェリには、若い娘との結婚生 活に耐えられるわけがない。
 レアの予測したとおり、シェリは彼女のも とに戻ってきた。これで恋の勝利を収めたか にみえたが、シェリはもとの若い青年ではな かった。彼も成長していた−−。
 この作品は、アンドレ・ジッド、アンリ・ バタイユ、プル−ストといった多くの文学者 たちから高い評価を得た。
 一九二二年に、思春期の性への目覚めを描 いた古典的な物語『青い麦』を出版した。こ れはコレットの実際の恋の体験が下敷きにな っている。
 コレットの二度目の夫、ジュヴネルの連れ 子であるベルトランとの体験だ。ベルトラン は十七歳、コレットは四十七歳。からだのあ まり丈夫でないベルトランを気候のよい自分 の別荘に呼び寄せ、面倒を見た。
 そのときの体験がもとで『青い麦』が生ま れた。
 一九三二年、コレット五十九歳のときに、 ミロメニル通りに美容院を開いて評判になっ た。執筆の呪縛から逃れ、女性たちの要望に 応えるという二重の欲求にかなうものだった 。自宅の庭でとれた花やハ−ブを調合した香 水、クリ−ム。化粧水などを「コレット」と いう商標で売り出した。
 六十歳も近いのにコレットの肌は白く、く っきりとアイラインを引いた目の上には、前 髪がふさふさしていた。
「おかしいときに笑うのはいいことです。で も、美顔が必要以上に衰えるのが嫌ならけっ して泣いてはいけません」
 結局、事業は一年あまりで失敗した。
 執筆する時間がなくなったのと、事業とし ては成立しなかった。
 翌年、コレットは『牝猫』を出版した。  一九三五年、コレットは六十二歳のとき、 四十五歳のモ−リス・グドケ−と出会って、 三度目の結婚をした。
 年齢差からいって、グドケ−はコレットの お金目当て結婚したと噂されたが、それは見 当違いだった。コレットが尊敬していた女流 作家ジョルジュ・サンド同様に、彼女は世間 の中傷などに耳を貸さなかった。
 コレットは浪費癖もあって、お金は少しも もっていなかった。また、年齢とともに、か らだの不調を訴える彼女をやさしく見守った のもグドケ−だった。コレットは第二次世界 大戦でドイツのゲシュタポに捕らえられたグ ドケ−を必死で救いだしている。
 二人は、深い愛で結ばれていたのである。 猫とクッションに囲まれて執筆をしていると きでも、コレットは夫との愛の交歓を楽しん だ。それによって新たな創作への意欲を燃や した。
「女子教育における最大の障害は次の三つだ 。ロブスタ−、ゆでタマゴ、そしてアスパラ ガス」(『ジジ』一九四一年)
 七十二歳のときには、コレットは名作『ジ ジ』を出版した。
 これはヘプバ−ンを舞台女優としても有名 にした作品である。
 一九五四年八月八日、女性として初めて国 民葬の形で、パレ・ロワイヤル広場で行われ た。(ちなみにその年に、フランソワ−ズ・ サガンが生まれている)。
 コレットの最期の言葉は、「リガルド(r egarde)」。フランス語で、観察する こと、身のまわり起きるすべてのことに敏感 であること。
 恋愛は、観察し、掘り下げ吸収し、そして 繊細で巧みな散文として忠実に再現すべき対 象だった。
 ペ−ル・ラシェ−ズの墓地第四区画にある 墓碑には、「ここにコレット眠る」と刻まれ ている。
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