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マドンナ(歌手・女優)MADONNA
1958.8.16−−
演出 produce
「私はタフで、野心的で、それに目的もはっ
きりしている。それが理由でビッチと呼ばれ
たってぜんぜん平気よ」
「力強さは媚薬になるけど、わたしってずば
抜けて力強い人間なのよ」
移り気で厚顔無恥な女王。マドンナ・ノニ
−・チッコ−ネは、一九五八年、ミシガン州
の港町、ベイシティで生まれた。父のトニ−
はイタリア系移民の子、母のマドンナ・ルイ
−ズはフランス系カナダ人。マドンナは七人
きょうだいの真ん中である。両親は信仰心が
篤く、きょうだいの仲は良かった。
マドンナはのびのびと育ったが、五歳半で
母を病気で失った。父が三年後に再婚したこ
とは、マドンナにとって大きな心の痛手だっ
た。父の愛を独占しようと考えていた彼女に
は、どうしても認めることのできないことだ
った。
マドンナは、少女のころから自己顕示欲が
強く、セクシ−な服装や仕種で、男の子たち
の注目を一身に集めていた。
高校時代はチアリ−ダ−として活躍し、演
劇部ではヒロインを演じた。成績は優秀だっ
た(IQ一四〇プラス)。男の子と(ときに
は女の子とも)性的なふざけあいをして、不
良少女のレッテルを貼られてしまった。
そのころ、すでにマドンナの才能を見抜い
ていた人物がいる。バレエ教師のクリストフ
ァ−・フリンである。マドンナは十四歳から
バレエ教室に通い始めたが、フリンはその学
校の主宰者だった。当時四十二歳。マドンナ
とは短い間、性的な関係があったという。
フリンはマドンナの才能を認めた。きみに
は特別な何かがある、彼はそう言い続けたの
だった。それが何なのかマドンナ自身にもわ
からなかったが、勇気づけたことは確かだっ
た。私はス−パ−スタ−になる。必ずそうな
れると信じた。
「自分自身が作品にならなければということ
に気づいた」
フリンはマドンナを美術館やコンサ−トな
どに連れて行って、見聞を広めさせた。フリ
ンとは、彼が六十歳でエイズで亡くなるまで
、教師として、友人として親しい関係を保っ
た。
マドンナが高校を卒業すると、ダンス奨学
生としてミシガン大学に進学した。だが、大
学で学ぶことになった古典バレエにもなじめ
なかったので、フリンの勧めもあって、ニュ
−ヨ−クに行くことになる。著名な振り付け
師バ−ル・ラングの主宰するダンス・カンパ
ニ−に入って、モダンダンスの勉強を始めた
。ミュ−ジカルや映画のオ−ディションも受
け続けた。
そんなときフランスの音楽プロデュ−サ−
二人が彼女の才能を見抜いて、パリへ連れて
帰った。彼らはマドンナを歌手デビュ−させ
ようと考えて、大掛かりなキャンペ−ンをし
ようとしたのだが、マドンナはパリを出てニ
ュ−ヨ−クに舞い戻ってしまった。
パンクとニュ−ウェ−ブに惹かれていたマ
ドンナは彼らの用意したポップス調のダンス
曲が気に入らなかったのである。
ニュ−ヨ−クに戻ったマドンナは、ドラム
の練習などを始めた。
ヌ−ドモデルなど、さまざまなアルバイト
をしながら、マドンナはギタ−を習い、作曲
も始めた。映画『マドンナin生贄』では主
演した。これはレイプシ−ンもあるエロティ
ック・サスペンスで、彼女が有名になってか
らあらためて公開された。マドンナは公開さ
れるのを嫌がったが、レイプやヌ−ドのシ−
ンのせいではなくて、ヘタな演技を見られる
のが悔しかったからだという。
マドンナは音楽仲間を集めてバンドを作り
売り出し作戦に出た。
一九七八年ころ、「ブレックファ−スト・
クラブ」「エミ−」などのバンドを結成した
。
ドラマ−としてメンバ−のお尻を見続ける
のは、彼女の性に合わず、ヴォ−カルのアン
ジ−・スミットを脱退させ、自分がマイクの
前に立った。
「いくらいい作品を作っても売れなくてはダ
メ」
というのが、マドンナの持論だ。
彼女は自分自身をプロデュ−スしていった
。多くの男と(女とも)寝たがそれも彼女に
とってはスタ−になるための栄養剤だった。
マドンナのパワフルな歌やステ−ジは、大
宣伝のおかげもあって、たちまち業界の注目
を浴びた。彼女はさらに有力な人物に身を委
ねた。巨額の投資をしてくれたプロダクショ
ンをいとも簡単に捨てた。それがマドンナの
やり方だった。
自己演出にかけてはマドンナは、天才的な
冴えを見せた。
自由にセックスを楽しむ女、男を支配する
強い女、それでいて可愛らしさもある女、そ
れが自分自身でプロデュ−スしたマドンナ像
である。『ライク・ア・ヴァ−ジン』を舞台
の上で歌いながら、セックスシ−ンを演じ、
素肌で男女がからみあう写真を公開した。映
画『マドンナ』では、私生活まで見せた。
「なめるのは嫌いだけど、なめられるのは好
きよ・・・一日半でも」
無防備なようでいて、スタ−性を高めてい
く。これも彼女一流の計算の上に立ってのこ
とだった。
歌手として頂点に立った彼女が次に標的に
したのは、スタ−女優の座である。
テレビのスクリ−ンだけでなく、銀幕のヒ
ロインにもなりたいと思うようになった」
アイドルはキャロル・ロンバ−ドやジュデ
ィ・ホリデイ。
二人の共通点は、人の期待を裏切らないと
同時に、期待に応えることで恰好の攻撃対象
にもなっている。
まず『ス−ザンを捜して』では、ロザンナ
・ア−クエットと組んだ。撮影が始まった頃
は、主演のロザンナがスタ−だったが、終わ
るころにはマドンナが主役の座を奪っていた
。のちにロザンナはプライドが傷ついたと語
っている。
だが、夫のショ−ン・ペンと組んだ『上海
プライズ』は失敗だった(一九八五年八月に
ジョ−ン・ペンと結婚。四年で破局)。
ウォ−レン・ビ−ティ製作・主演の『ディ
ック・トレ−シ−』は、マドンナのほうから
売りこんだ。ディック・トレ−シ−を誘惑す
るブレスレスという悪女を演じたが、地をい
く演技で好評だった。
女性ばかりの野球チ−ムを描いた『プリテ
ィ・ベイビ−』では、主役ではなく、脇役に
徹した。これも計算の上のこと。
男の選び方も、きちんとマドンナは計算し
ていた。
ジョン・ケネディ・ジュニア(ピ−ナツ・
バタ−のプレイで有名に。ジャッキ−・オナ
シスが二人の交際に猛反対した)に始まって
、結婚したショ−ン・ペン、ウォ−レン・ビ
−ティなど。マドンナが再婚相手に選んだの
はカルロス・レオン。
ショ−ン・ペンの場合は、自分よりはるか
に有名な妻をもった男の悲劇を代表していた
。
ペンは猜疑心や嫉妬などで、苦しんだ。そ
の挙げ句、マドンナに暴力を振るったのだっ
た。彼は逮捕され、実刑判決まで受けている
。
マドンナはペンやビ−ティの子どももほし
がったが、かなわなかった。
マドンナは必ず、自分のほしいものを手に
入れる。カルロス・レオンとの間にルルドと
いう女の子をもうけた。
彼女の妊娠がわかったのは、『エヴィ−タ
』の撮影中のことだった。この『エヴィ−タ
』に掛けた執念はすさまじかった。
生後二カ月のとき、「この子は私に似てい
る」とマドンナは言った。
「赤ちゃんはおなかがすくと泣くけれど、私
の子は何がほしいか、はっきり訴えるのよ」
娘を見れば、母親がわかるということだ。
自己演出の上手いマドンナのこと、これか
らどんな手を見せてくれるのか。
マドンナは、マリリン・モンロ−をまねた
といわれる。たしかに、セクシ−さを演出す
る方法はマリリンを彷彿させる。しかし、マ
ドンナは生き方まではまねなかった、あくま
でもマドンナ流を貫いたのである。
「移り気で厚顔無恥な女王」マドンナは、同
時代を生きる女性に力強いメッセ−ジを送り
続けている。
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