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阿部定
1905(明治38).5.28−−

切断 cut

 昭和十一年五月、阿部定(三十一歳)は自 分の働く小料理屋の主人石田吉蔵(よしぞう )と二度目の駆け落ちをした。その後、まる 一週間、二人は待合で過ごしたが、その果て に男は殺されていた。
 この事件は、愛欲の日々の末に男が女に殺 されただけの事件に思えたが、あまりの猟奇 的な事件のために世間を騒然とさせた。二・ 二六事件など政治的にきわめて不安な時代だ ったので、逆に一種の捌け口になった。
 セックス三昧の日々を送り、二人はついに 金策もつきて追い詰められる。一緒に死のう と、まず定が男を絞殺した。男を眺めている うちに、愛しい人のペニスを切り取ることを 考えた。
 定は隠しもっていた牛刀でペニスを切り取 った。睾丸を抉ったが、うまくいかずに男の 股を傷つけた。彼女はこの一連の行為を終え ると、血文字で敷布に「定吉二人」と書き残 した。男の股にも同じ文字を刻んだ。
 予審訊問調書によると定は「彼はセックス が濃厚で上手」と述べている。
「四十二歳とはとても思えず、可愛くて、肌 の色は二十代のよう。気持ちは単純で、ちょ っとしたことにもすぐに怒る人」
 セックスの場面も述べた。
「愛を確かめるためにお互いの性器に椎茸や 刺身をつけて食べたりしました」
 ふざけて男の首を締めると「とても悦んだ」 とも述べた。
 定は抱かれていると、男がとても可愛くな って、どうしようもなくなってしまった。「 噛んだり、息が止まるほど抱き締めて関係す ることもありました」
 なぜペニスを切断したかについては、「そ れは一番可愛いもの、大事なものだから」と 予審訊問調書で述べている。
 その後、刑を終えて出た阿部定の消息につ いては詳しいことはわかっていない。が、吉 蔵の位牌のある身延山久遠寺には「定らしき 女性からお布施や花が届けられていたことが ある」という。
 阿部定は明治三十八年五月二十八日、神田 新銀町の畳屋の娘として生まれた。六人兄弟 姉妹の末っ子だった。父は実直な畳職人で、 何人かの職人を使い、経済的には恵まれてい た。定は三味線、舞踊などの稽古事にも通っ た。
 家にいる職人から聞かされて、すでに男と 女のことは十歳ころには知っていた。定の兄 が道楽者だったので、彼の代わりに姉夫婦が 後を継ぐかどうかで、家のなかはいつももめ ていた。そのたびに、定は小遣いを貰って外 に出された。彼女は孤独感にさいなまれた。
「お友だちのお兄さんの友だちと、ふざけて いるうちに関係されてしまいました」(『予 審訊問調書』)
 相手は慶応の学生で、「結婚するときのお 稽古」などと口から出まかせを言って関係を 迫った。ただ、苦痛だけで出血が二日間も続 いた。初潮(十六歳の暮れ)より前の十四歳 (数え年・以下同じ)で初体験をした。
 このあと定は、街の不良たちと付き合うよ うになっている。
 父は畳屋をやめて実家のある埼玉県の坂戸 に引っこんだ。ここでも、定は男たちと遊び まわった。
「そんなに男が好きなら芸者にでもなってし まえ」
 と父親から叱責されたために、彼女は本当 に芸者になってしまった。
 十八歳になると、定は紹介屋を通して前借 金三百円で、横浜の芸者置屋「春新美濃」に 抱えられて、「みやこ」の源氏名で、座敷に 出るようになった。
「春新美濃」を振り出しに、定はいろいろな 置屋を転々とする。神奈川区の「川茂中」に 住み替えたのち、富山市の「平和楼」、さら に長野県飯田の「三河屋」に住み替えた(芸 名は静香)。
「信州の芸者はみな不見転芸者で」(『予審 訊問調書』)
 つまりは、芸を売るのではなくて、からだ を売る芸者、それならいっそ娼妓になったほ うがいいと、定は大阪の飛田遊廓の「御園楼 」の娼婦になった。
 その後は、カフェ−の女給、妾をして各地 を転々とした。
 名古屋の千種区にある料理屋「寿」で女中 (田中加代の偽名)をしていたときのこと、 定は市会議員で名門商業学校の校長、大宮五 郎と会う(『予審訊問調書』では小宮三郎)  定はこの大宮先生に一目惚れしてしまう。 温厚篤実、教養もある。彼女は自分のほうか ら仕掛けて関係を結んだ。
 しかし、彼は定に「満足」を与えてくれる 男ではなかった。定は名古屋から東京に戻っ た。大宮先生は、ときどき上京してきたので 会って関係をもち、お金を貰っていた。
「私は情交では先生一人で満足できませんで したが、その真実味に感謝して、いまでも忘 れることができません」
 定は、一人寝が淋くてならなかった。
 大宮先生と会うのは、月に五、六回。それ では満足できないので、以前からの知り合い の客ともときどき関係していた。
 定は中野区新井の料理屋「吉田屋」の女中 となる。その主人が石田吉蔵であった。
「みめかたちのよい、すっきりとした男ぶり、 水のたれるようなという言葉が吉蔵を想うと きの全部。中野の花柳界の人たちは役者のよ うななどというほめ言葉であの人の噂をする のでした」(『阿部定手記』)
 定は三十一歳、吉蔵四十二歳。吉蔵はすれ ていない恥ずかしそうな素振りをする美男 だった。
 彼女は、たちまち吉蔵を好きになり、店の 中でじゃれあっているところを、別の女中に 見つかった。
 吉蔵は妻になじられ、二人は駆け落ちをす る。第一回目の家出である。
 昭和十一年四月二十三日、午前八時、二人 は新宿駅で会い。渋谷の町待合「みつわ」に 行った。
「私はまだ他人行儀にしており、石田は片膝 を立てて座っており、様子のよい姿で、『二 人ときは旦那さんなんていうなよ』と前から 知っていたような甘いことを言う」(『予審 訊問調書』)
 その言葉に定の心は開いた。
 二人は酒を飲み、大騒ぎした。
「二十七日の夕方まで居続け、寝床は敷き放 しにし、昼となく、夜となく、情交し、芸者 を寝床まで呼んで、酒を飲み、乱痴気騒ぎを し夢中になっておりました」(『予審訊問調 書』)
 定と吉蔵は、渋谷の「みつわ」から、多摩 川の「田川」に移り、さらに尾久の「満左喜」 へと転々とした。
 その間に、所持金が無くなり、知り合いの 柳橋の芸者に借りたり、上京した大宮に百二 十円の無心をした。
 四月二十三日に家出をしてから、五月七日 まで、すでに十五日間が経っていた。
 吉蔵は、いったん帰宅し、妻の機嫌をとる ことにした。定は知人宅に身を寄せていたが、 淋しくてしょうがない。
 五月十一日の夜、二人は電話で連絡をとり あり、中野駅で落ち合い、タクシ−で尾久の 「満左喜」行った。
 それから二人はまる一週間、部屋にとじこ もって布団に入りびたりだったのである。
 事件が旅館の女中によって発見されたのは 五月十八日正午ごろであった。
 定は、自分だけが生き延びるつもりはなく 自殺するつもりで、遺書もしたため、品川駅 近くの旅館にいるところを逮捕される。
 判決では、懲役六年を言いわたされた。
 刑務所での定は模範囚で、奇しくも犯行か らちょうど五年後の昭和十六年五月十七日に 出所した。
 定は吉井昌子と名乗り、結婚したが、過去 の事件のことが夫にわかり、離婚した。
 その後は水商売に入ったり、劇団にくわわ り自ら阿部定劇を演じたりした。房総半島の 旅館で働いていたこともある。
 定の生死は、確認されていない。
「生きていれば吉蔵は決して私だけのもので はない。死なしたからこそ私のものなのでご ざいます」(『阿部定手記』)
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