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”マザ−”ジョ−ンズ(社会運動家) Mother Jones
1830.5.1−−1930.11.30

闘士 fighter

『ライフ』誌(一九九七年五月五月号)は「 我々のヒ−ロ−を祝福する」と題した特集を 組んだ。そのなかにマザ−・ジョーンズ百歳 の誕生日の写真が掲載されている。大きなバ −スデイケ−キの前に、彼女は立っている。  髪はくしゃくしゃで、にらみつけたような 顔をしているが、なんとも愛嬌がある。見て いるだけで笑いたくなってくる。心が和む。  本名のメアリ−・ジョ−ンズよりも、その 風貌からマザ−(母)の愛称で呼ばれた。
 マザ−・ジョ−ンズは、まさに労働者のた めに闘う母親であった。
 ストライキ中の労働者を奮起させるために 演説をすると会社の役員たちは震えあがった。 「あんたらのような腰抜けじゃこのストライ キは負けるよ。からだを張って勝ち取るだけ の根性がないのかい。なんで、もっとでかい ライフルをもってきて、スト破りどもを鉱山 から追っ払わないんだい」
 胸のすくようなタンカを切ったのは、ウエ スト・ヴァ−ジニアの鉱山のストライキ。一 九一七年で、なんと八十七歳のときだった。  ”マザ−”ジョ−ンズは、アイルランドか らきた鉄道建設労働者の娘だが、一八六七年 メンフィスで、当時流行していた黄熱病で夫 と四人の子どもたちを数週間のうちに次々と 失う不幸を経験した。それから彼女の人生は 大きく変わった。次つぎに悲惨な姿を表した。  まず、シカゴで洋裁の仕事を始めたのもつ かの間、一八七一年のシカゴの大火で焼け出 された。すべてを失ったあと、ジョ−ンズは 急進的労働者の秘密結社「労働騎士団」(一 八六九年に設立された労働者の利益擁護団体 )に参加するようになる。
 そのころ、労働者は一日、十四時間働いて も得られるのはわずかな食いぶちだけ。その 賃金も会社の売店で使わせる悪辣さだった。 ジョ−ンズが腹を立てる材料はいくらもあっ た。
 一八七七年、ストライキに立ちあがった労 働者の側に立った。未組織労働者を組合結成 という方向にむけて組織化し、ストライキの 規模を大きくしてゆく。
 女として、妻として人生の辛酸をなめてき たジョ−ンズが闘争に足を突っこんだのは五 〇歳に近いときだった。以来、四十年にわた ってアパラチアの炭坑、コロラドの銅山、南 部の紡績工場などをわたり歩いて労働者を組 織していくのである。
 労働者たちが組合を作ろうとするだけで撃 たれることが普通だったころ、彼女の姿はあ ちこちのストライキで見られた。
 ストライキをしている労働者の家族のとこ ろに泊まり、闘いが終わると次に移っていく という生活が続いた。
「私の住所は私の靴と同じ。私と一緒に旅す るのさ」
 ジョ−ンズはいつもそう言っていた。
 労働者たちから、おふくろ扱いを受けて” マザ−”ジョ−ンズというニックネ−ムで呼 ばれたが、ますます目立った存在になってい た。
 背は百五十センチしかなく、体重も四十五 キロを切るくらいだったが、未亡人の黒服を 着て鉄縁の眼鏡をかけたジョ−ンズは、ひる むことを知らなかった。
「死者のために祈ろう。そして生きているも ののために徹底的に闘おう」
 一九〇〇年の一連の炭坑ストでは、スト破 りの人員が補充され、ジョ−ンズは女たちに モップを振り、洗い桶を叩いて大きな音を出 すように指示した。
 ジョ−ンズは暴力をあおったとして批判す る人もいたが、彼女はこれを否定せず、こう 言った。
「大地を受け継ぐものは、闘うものであり、 柔和なものではありません」
(マタイによる福音書、5・5「幸いなるか な柔和なる者、その人は地を嗣がん」)
 ジョ−ンズが参加したストライキは、彼女 自身が指令を出したものではない。それでも その結集の呼びかけは、きわめて効果的だっ た。
 後年、ある労働者は言っている。
「たった一回のスピ−ーチで、その地域全体 をストに立ちあがらせたものだった。そして ストライキの参加者は、その後、何カ月も、 空腹をかかえ、刑務所にぶちこまれても、最 後まで彼女に忠実だった」
 ジョ−ンズ自身、何回も投獄された。
 だが、そのことが彼女の支持者たちの結束 を固めることになった。
 ジョ−ンズは、児童労働者の虐待に世間の 目を向けさせるために十歳の少年を連れてプ リンストン大学で講演したことがある。
「ここに経済学の教科書があります。彼は一 週間に、三ドルを得、十四歳の姉は六ドルを 得ます。二人は絨毯工場で、一日十時間働き ます。その間、金持ちの子どもたちは高い教 育を受けているのです」
 社会改革運動の支持者のクラレンス・ダロ ウによると、「マザ−・ジョーンズは出来あ がってしまった組織にはいつも懐疑的。こう した組織には妥協がつきものだから。彼女に とって、物事はつねに二つしかない。正しい か、間違っているかの、どちらかなのです」  ジョ−ンズは九十歳を過ぎてもも、闘いを 続けた。
 一九二四年には、シカゴの婦人服仕立て職 人たちのストライキを助けた。
 晩年の数年間は、ワシントンDC郊外のあ る退職した炭坑夫の家で過ごした。
 一九三〇年の百歳の誕生日には、全米の傑 出した政財界人から祝電が届いた。
 そのなかには、ジョン・D・ロックフェラ −二世もいた。彼の父は何十年か前、ジョ− ンズが闘ったコロラドのいくつかの銅山の持 ち主だった。
「彼はとてもさっぱりしたいい人だった。私 は何回も彼をやっつけたけれど、私たちは和 解したの。この電報は、過去を水に流そうと いうわけね」
 七カ月後、ジョ−ンズは死んだ。
 遺体はイリノイ州の南にある鉱夫の共同墓 地に葬られた。
 同時代の労働運動の指導者たちは、それぞ れ高く評価されているのに、ジョ−ンズの名 前はあまり知られていない。しかし、こうし た労働運動のリ−ダ−たちも、彼女が闘いに 参加しなかったら、それほど有名にならなか ったかもしれない。
 ジョ−ンズの伝記作家の一人は言う。
「マザ−・ジョ−ンズは、民衆のヒロインで す。彼女の感化を受けた人びとは、名声や富 や地位という点から見れば、さして重要とは いえないかもしれない。だが、その数におい て彼女はまさに偉大なのです」
 ロサンゼルスのフェミニズム関係の書籍を 専門に扱っている書店があるが、そこにも大 きなマザ−・ジョ−ンズのポスタ−が貼って あった。いまも彼女に対する大衆の人気は少 しも衰えていない。
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