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岡本かの子(作家)
1889.3.1−−1939.2.18

童女 naive

 岡本かのこは不思議な女性である。分厚い 白塗りの化粧をほどこした、ゴム毬のような あどけない顔。派手な衣装に包まれたむっち りした肉体。いくつになっても、童女性の抜 けきらない性格。それが渾然一体となって醸 しだす満艦飾の存在感があった。
 大貫家は神奈川県二子の大地主で、岡本か の子は、その長女として生まれた。兄弟姉妹 の誰よりも愛され、乳母からは「姫さま」と 呼ばれていた。
 上流家庭の子女ばかりが集まる跡見女学校 に入学したが、そのころら文才を発揮した。 学内雑誌には、毎号かの子の歌が載ったほど だった。
 かの子の兄、雪之助は文学青年で、晶川と いう筆名で『明星』『文庫』などの文芸雑誌 に小説や戯曲を発表し、親友の谷崎潤一郎ら とともに、新進の作家として注目されていた。 かの子は、谷崎に恋心を抱いていたが、谷崎 のほうは、厚化粧で派手な着物をまとった彼 女を「醜女」と寄せつけなかった。
 十六歳ごろから、作品を投稿しはじめ、翌 年には心酔する与謝野鉄幹、晶子夫妻の『明 星』に大貫可能子の筆名で短歌をさかんに発 表している。
 卒業後すぐに、文学青年の伏屋竜彦と恋愛 し、駆け落ちする。だが、若すぎる二人の恋 愛は長続きしなかった。
 かの子はノイロ−ゼにかかり、その療養と 避暑をかねて信州追分に滞在していた。痩せ て、無口で、白粉をまだらに塗っている。眼 が異様に輝いていた。人気漫画家の岡本一平 は、友人を介して、信州追分に滞在している かの子を知る。
 翌年の八月、大洪水に見舞われたが、一平 は橋の流れた多摩川を泳いで渡って行き、か の子に求婚したのだった。
 結婚したとき、かの子は二十一歳、一平は 二十四歳だった。かの子の両親が心配したと おりの不幸が始まった。
 お嬢さま育ちのかの子は、家事全般がほと んどできなかった。姑、小姑との折り合いも 悪かった。
 そこで、夫婦だけの生活を始めたが、一平 は家庭を省みなくなった。新聞の連載漫画で 売れっ子の彼は、酒と女に溺れた。高額の収 入もほとんど遣い果たしてしまった。
 さらにかの子を愛してくれた兄の晶川と母 のアイが亡くなったうえに、実家が没落した。 精神的にも経済的にも、支えを失って、赤ん 坊の太郎(のちの画家岡本太郎)をかかえた かの子は、茫然自失した。かの子にできるこ とといえば、太郎といっしょになって泣くこ とだけだった。
「幼いころは日がないちにち、母と二人っき りで、家の中に、じっと抱きあうようにして 暮らしていた」(『岡本太郎著作集)
 二人っきりで世の中から置き忘れられたよ うな淋しい毎日だった。
 黒髪がいつもほとんど束ねられていなくて、 ぱらりと肩に垂れ下がっていた。そのため、 太郎は近所の悪童たちから「お前ンちのおか あさんはユ−レイだ、ユ−レイだ」と言って はやされた。
 長女の豊子を八カ月で亡くすと、ついにか の子は精神を病んでしまったのである。
 かの子が自殺未遂をして苦しんでいるのを 知って後悔した一平は、それまでの生活態度 や考え方を一変させる。酒や女などの放蕩を やめてかの子のために生きようと決意した。  かの子が、堀切重夫という若い文学青年に 恋をすると、一平は、彼との同居を許してい る。彼女は当時、妊娠していたが、悩みなが らも同じ家の中で夫と恋人の間を行き来した のだった。
 堀切も悩み、家事をするために岡本家に通 ってきていたかの子の妹のキンに心を移した こともある。
 後年、息子の太郎が語っている。
「泣いている私を柱にしばりつけて、原稿を 書きまくっていたものです」
 母性はなかったが、童女のようなかの子を 太郎は愛していた。
 恋人と夫が同居する奇妙な生活はついに破 局した。堀切は結局、岡本家を出て、故郷に 帰り、そのいきさつを書いた小説を発表した が、胸を病み、二十四歳の若い命を閉じたの である。
 そんな混沌とした中でかの子が産んだ次男 も生後半年で亡くなった。
 一平とかの子は宗教に救いを求めた。宗教 を学び、のちに仏教研究家として有名になる。  一平は風刺漫画家として最高の人気を保ち 続けた。
「総理大臣の名前は知らなくても、一平の名 前は誰でも知っている」といわれたほどだ。  禁欲生活を送り、妻とセックスをしなかっ た。これはかの子が死ぬまで守り通した。
 かの子は小説家としての勉強を始めた。
 昭和四年(一九二九)十二月二日、かの子 が四十歳のとき、ヨ−ロッパ旅行に家族で出 かけた。このときもかの子は、二人の男性を 同行させている。一人は秘書的な役割をして いる恒松安夫、もう一人はかの子の恋人新田 亀三である。彼はかの子より九歳年下の医師 で、彼女が入院したときの担当医だった。
 彼らはパリ、ロンドン、ウィ−ン、イタリ ア各地をまわってアメリカへ渡った。その間 三年間におよんだ。太郎はパリに残り、ソル ボンヌ大学で学び、画家としての道を歩むこ とになった。
 かの子は、出発の翌日の日付で『わが最終 歌集』を発行した。歌という形式に訣別し、 この旅を期にまったく新しい自分を創造しよ うという決意を表した。それは小説だった。 『鶴は病みき』で小説家に転身してからのか の子は『母子叙情』『巴里祭』『老妓抄』『 女体開顕』『雛妓』など相次いですぐれた作 品を発表した。
 かの子は、傷つきやすく、誤解されやすか たが、自己の感性を信じた。
 外出先から帰ってくると、履物を脱ぎ捨て てかけあがってくる。そして大声で泣き出し た。
「手がつけられないほど」と息子の太郎は書 いている。「母というより、妹か恋人のよう に甘えてきた」
 四十九年間を何事にも正面から向かい、自 分にも他人にも妥協を許さなかった。そんな かの子を男たちは愛した。
 昭和十四年二月二十四日の夜、太郎はモン パルナスのカフェで友人たちと雑談した後、 アトリエに戻った。日本からの電報が届いて いる。発信人は、一平だ。
「カノコ病気 回復の見こみ」
 一日置いて第二信。
「カノコ危篤 希望を捨てず」
 太郎はこのとき、母の死は避けられないと 知り、絶望した。
 二十八日の夜、
「カノコやすらかに眠る 気を落とすな あ と文」
 自分が死んで、母が生きないものか!
 太郎は涙を流しながら、パリの町を歩き続 けて念じた。のちにわかったことだが、最初 の電報を受け取ったとき、かの子はすでに亡 くなっていたのだった。一平は、息子の悲し みを少しでも和らげようと、そうした配慮を したのだ。
 かの子は二月十八日、脳充血で亡くなって いた。神奈川県油壺の旅館で倒れたとき、若 い男が一緒だったという。
 夫や新田はそれを知っても看病を続けた。  東京帝国大学付属病院小石川分院に入院し たが、意識不明に陥り、そのまま眠るように 亡くなった。
 奇しくも、信仰の篤かった観音様の日であ った。
 かの子の遺言は「あたしが死んだら、お通 夜もお葬式も絶対にウチの者だけでやってく ださいね」
「火葬は嫌い、死体を焼くのはおかしい」と 言っていたので、多摩墓地に無理を頼んで土 葬の許可を取ったのだった。
 亡くなると、多摩墓地に穴を掘り、二人は 東京中の花屋から薔薇の花を集めて、敷きつ めた。
 観音菩薩像の台座には、岡本かの子と刻ま れ、右隣りには、大阪万博のシンボルマ−ク 太陽の像に似た一平の墓、太郎の墓がある。
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