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宋美齢(蒋介石夫人)
1897.3.5−−2003.10

白雪姫 snowwhite

 宋家の三姉妹は「一人(靄齢)は金を愛し 一人(美齢)は権力を愛し、一人(慶齢)は 国を愛した」といわれる。
 靄齢は、晰江(サッス−ン)財閥の巨頭、 孔祥煕と結婚し、慶齢は革命家の孫文と、三 女の美齢は国民党の蒋介石と結婚した。
 中国では、美齢は「ザ・マダム」あるいは 「サ・ドラゴンレディ」とも呼ばれた。この ドラゴンレディとは、もともと外国人が悪女 として西太后を呼ぶときの言葉だが、美齢も そう呼ばれることがあった。
 美齢は一八九七年三月、宋家の三男三女の 四番目、三姉妹の末っ子として生まれた。上 海で指折りの財力を誇る父のチャ−リ−宋( 韓嘉樹)は上の二人の娘にならって、その子 を美齢(メイリン)と名づけた。
 子どものころ丸々とした容姿から「小燈籠」 と呼ばれた美齢は、虚栄心が強く、誰も彼に 逆らわなかった。
 敬虔なキリスト教徒だった両親の影響で美 齢も信仰心の篤いクリスチャンとなり、アメ リカで教育を受けることになった。
 美齢は十二歳で、ジョジ−ジア州の名門ウ ェズリイアン女学校に入り、姉慶齢のそばで 暮らすことになった。姉妹はアメリカ式の洋 服を身につけていたが、その生地は上海から ら送ってくる中国製だった。二人だけのとき は中国式のガウンに着替えが、友人が訪ねて くると慌てて普段着に替えた。
 美齢は早熟で、おしゃれ好きだった。口紅 や頬紅は恥ずかしいものとされていた時代に、 中国製の白粉と口紅をつけていたほどだ。慶 齢は真面目な勉強家で、美齢は目立ちたがり 屋の活動家と評判だった。
 慶齢が学校を卒業して、中国に戻ると美齢 はハ−ヴァ−ド大学に学ぶ兄を頼ってマサチ ュ−セッツ州に行き、ウェルズリ−大学に転 校した(ヒラリ−・クリントンもこの大学の 卒業生)。彼女は一九一三年の秋から一七年 の夏までの四年間を過ごしている。
 それまで丸々と太っていた少女は美しい女 性に変身していた。二十歳で、美齢が上海に 戻ったとき、すでに慶齢と孫文のスキャンダ ルは収まっていた。美齢がすぐに話題の人に なった。上海の著名人として、美齢はいくつ もの役職に指名された。
 一九一八年五月三日、父チャ−リ−が五十 二歳で息を引き取ったとき、美齢は帰国して 一年と経っていなかった。
 この後、美齢と靄齢と慶齢の三姉妹一緒と いう場面は、きわめて少なくなった。姉二人 はそれぞれ夫のもとに帰り、美齢はセイモア ロ−ドのより大きな家に母と一緒に移り住ん だ。
 一九二一年十一月、美齢は宋子文が開いた クリスマスパ−ティで蒋介石と出会う。蒋介 石は、当時結婚したばかりで、、その他にも 前妻と妾がいたが、美齢にすっかりまいって しまった。
 だが、蒋介石は、すぐにその話を切り出す わけにはいかない。彼は孫文(姉靄齢の夫) に、女性関係を精算して、新しい生活を始め たいのだと打ち明けた。
「ミス宋美齢に私を受け入れてくれるように 説得することは可能でしょうか?」
 孫文はしばらく考えて、それはダメだろう と素直に答え、それでも一応は妻に相談して みると答えた。それを聞いた靄齢は憤慨し、 仮にいまは結婚していないとしても、女性関 係の派手なそんな男との結婚は許せないと答 えた。
 しかし、それから六年後には蒋介石は美齢 との結婚を果たした。一九二七年十二月一日、 宋家の一族、友人、親戚がセイモアロ−ドの 家に集まった。孫文の像の下での結婚式だっ た。
 この結婚を『ニュ−ヨ−ク・タイムズ』紙 は一面トップで報じた。結婚から九日後に、 蒋介石は国民革命軍総司令の地位を回復し、 ふたたび「中国の強人」(ストロング・マン )になったのである。それにしても美齢は蒋 介石との結婚をなぜ決意しただろう?
 一九二七年、美齢は自称、二十七歳。実際 は三十歳。自尊心の非常に強い女性で、それ までにも多くの求婚をしりぞけてきた。
 が、「中国の偉大な指導者の妻」の座に心 を動かされたのである。
 美齢はさまざまな思いや活力を秘めていた が、女性の力だけでできることには限界があ ると思った。そこに権力者の蒋が登場した。 彼女は自分が運命を思うままに操れるイタリ アの名門、メディチ家の一員になったような 気がした。
 結婚して三年も経たないうちに、美齢は蒋 に「洗礼を受ける」という約束を果たすよう に迫っている。そして三〇年十月二十三日、 チャ−リ−宋の教会で洗礼を受けた。
 このニュ−スに中国の人びとは驚いたが、 アメリカでは称賛の声があがった。
 美齢は、外見は中国人だが、その他の点で では正真正銘のアメリカ人に見えた。
「私のただ一つの中国のものは、私の顔」と 彼女自身も言っていた。
 中国の民衆に対する美齢の影響は、とるに 足らないものだったが、外国人の注意は大い に引いた。彼女は行く先々で外国人宣教師と 婦人クラブで話をするほどの人気だった。
 美齢は宣教師たちと、中国版「ニュ−デ− ル」の作成にとりかかった。彼女は、それを 「新生活運動」と名づけて、中国の伝統的な 美徳である「礼・義・廉・恥」を中流アメリ カ人ふうの質実剛健な生活態度に変革しよう とした。
 美齢の「新生活」とは−−「唾を吐くな」 「安全第一」「道をきれいに」などの標語が 掲げられ、それを少しでも違反すると、厳し い罰を受けた。
 もっとも、美齢自身は公の席ではタバコを 吸わないように努力をしていたが、はっか入 りタバコの中毒で、内輪の席ではチェ−ン・ スモ−カ−であった。
 美齢が、アメリカ行きを蒋介石に説得させ るのは、簡単なことだった。夫には、新しい 恋人ができていて、二人の結婚生活に重要な 危機が生じていた。かつて美齢は蒋介石のこ とを「ダ−リン」と呼んでいたが、このとき には、「あの男」と呼び捨てていた。そして どういうわけか美齢は蒋介石の子どもを産ま なかった。
 美齢は国際的にも知名度があり世界でもっ とも影響力のある女性の一人になっていた。  美齢は国連で演説をしたとき、指にはダイ ヤモンドをつけていた。
 本物かどうか聞かれた彼女は「ガラス玉で す」と答えた。
 暗黙のうちに中国救済基金を訴えたのであ る。アメリカ国民はまんまと彼女の術中には まった。募金は成功したが、援助をめぐる詐 欺行為が発覚した。
 宋一族は分裂を始めた。一九四九年、蒋介 石は台湾へ逃れ、総統令で台北遷都を布告し た。一族の多くはアメリカに移り住んだ。美 齢も蒋介石の死後、台北を離れ、ロングアイ ランドの孔令侃の別荘で隠遁生活に入った。 彼女のニュ−スが流れたのは、一九七五年四 月五日、蒋介石が八十七歳の生涯を閉じたと きである。
 アメリカ人にとって、美齢は中国の貧民の なかのお姫さまであり、中国の皇后となった 最初のアメリカ人の女性だ。東洋の七人の小 人の庭の白雪姫だった。事実、国務省におけ る彼女の暗号名は白雪姫だ。
 この目立ちたがり屋の白雪姫は、生き永ら えた(ニュ−ヨ−クに在住)。
一九九九年三月二十日、美齢の百歳の誕生 日を祝う講演会が台北で催された(誕生日に は諸説あるが、国民中央党史委員会によれば 一八九九年の農暦二月一二日生まれ。今年は 三月二九日がその日に当たる)。
 講演会では、蒋介石が抗日戦争をうながす 張学良将軍に監禁された西安事件(一九三六 年)で、夫人の美齢が西安に赴いて救出した 功績や、アメリカでの政府や議会での支持を 取り付けた輝かしい業績ぶりが語られた。
 年老いた白雪姫は、にんまりと微笑んでい ることだろう。
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