究極のマリリン・モンロー A-Z(メルマガ)
週に1度、マリリン・モンローの情報をお届けします。
メールマガジンの申し込みは、こちらです(melma!)
「妻は生きている」
究極のマリリン・
モンローA-Z
愛に生きる伝説の
女たち
聖林百話
新ボストンに友情あり
マリリンの素顔
元祖・雑学の悦楽
(Significa) NEW

メルマガ登録 NEW
最新情報
PROFILE(プロフィール)
ご意見・ご感想
リンク集
smile@ainoue.com
TOPに戻る
web KADOKAWA

連載中

モバイル版はこちら
ヘレン・モ−ガン(歌手)Helen Morgan
1900−−1941

女主人 hostess

 あなたは偉大な歌手、ヘレン・モ−ガンを 知っているだろうか?
 一九二〇年代のシカゴ。ピアノの上に座り、 トレ−ドマ−クのスカ−フを掴んでト−チ・ ソングを披露した歌手ヘレン・モ−ガン。
 ニュ−ヨ−ク・ブロ−ドウェイやクラブの 女主人としても知られた。
 ヘレン・モ−ガンの母、ルルは一九〇〇年 年に、トロントで、自分が妊娠していること を鉄道員の夫トムに告げたとたんに捨てられ てしまった。鉄道の食堂で朝六時から八時間 交代で、ヘレンが生まれた当日まで働いた。 次の日には、赤ん坊を籠に入れて働きに出た。
 五年後に家出をした夫トムが戻ってきたの で、一緒にイリノイ州ダンヴィルに行ってや り直そうとしたが、結局トムは誠意を示さな かった。彼はウィスキ−を控えることも、定 職につくこともせず、ヘレンが十二歳になる 前にふたたび姿を消した。このときから母と と娘のヘレンはお互いに助け合うようになっ た。
 ダンヴィルでもルルは食堂に勤めたが、ヘ レンも同じ職場で働いた。ヘレンは客からは フランス系カナダ人のフォ−クソングを、ル ルからは『草競馬』のようなフォ−クソング を習った。
 十二歳の少女は、フォ−クソングを歌って お客たちを楽しませた。そのことがちょうど、 鉄道の食堂で働く女性たちの生活を調べてい た元舞台女優のエイミ−・レスリ−の目に留 まった。暮らしぶりに感動したレスリ−は、 モントリオ−ルのクラブに紹介すると言った。 ルルとヘレンは少しでもましな生活を送れる のであれば、どこでもよかった。二人にとっ て新しい世界への出発だった。
 ヘレンはきれいな娘に成長して、シカゴで は、ミス・イリノイに、カナダではミス・マ ウント・ロイヤルに選ばれた。その賞品のニ ュ−ヨ−ク旅行をきっかけに、母と娘はニュ −ヨ−クに出た。
 一九一九年、母のルルはデパ−トの売り子 となり、ヘレンは画家のモデルとして働くよ うになった。
 翌年一月十六日に、禁酒法が施行された。  ヘレンはミュ−ジカル『サリ−』のオ−デ ィションを受け、コ−ラスラインとしてわず かな給料をもらうことになる。当時の主演女 優のマリリン・ミラ−(マリリン・モンロ− は彼女から名前をとったともいわれる)は、 週三千ドルのギャラとショ−ビジネス史上初 の収益の歩合を取るという契約をしていた。
 ヘレン・モ−ガンの美貌と歌手の才能が少 しずつ認められるようになった。
 一九二五年のブロ−ドウエイ・レヴィユ− 『スキャンダル』に出演してから、ヘレンの 運は上昇し始めた。二六年には、『アメリカ −ナ』に参加した。そのころから、聞き手の 胸にしみ通るような歌声のバラ−ドの『ノ− ・バディ・ウォンツ・ユ−』(誰もあなたを 欲してはいない)が彼女の売り物になった。  ヘレンは自分のクラブを経営するようにな ったが、彼女は暗黒街とのつきあいもできた。 数件のクラブを経営するようになり、どこも 成功した。
 当時、”スピ−ク・イ−ジ−”の女主人と してヘレンの名前は”テキサス”と並んでも っとも知られた白人女性だった。テキサスは その名の示すとおり、あらっぽい性格だった が、ヘレンはどこかおっとりとしていた。
 といっても、ヘレンが警察の手入れと標的 かからはずされたわけではない。
 一方でヘレンはブロ−ドウェイ・ミュージ カル『ショ−・ボ−ト』に出演して成功を収 めたが、経営するクラブが手入れを受けて逮 捕され、拘留されて千ドルもの大金の保釈金 でようやく釈放された。
『ショ−・ボ−ト』の公演は五百七十二回も 続き彼女が歌う曲は、彼女のテ−マ・ソング にもなった。
 一九二七年十二月二十九日、「シェ・モ− ガン」は満員だった。オ−ケストラの演奏で ヘレンは一回目のショ−を終えたところだっ た。
 ヘレンはバ−にいた新聞記者に飲み物を注 文してやったが、突然、席を立って部屋から 出ていった得体のしれない二人には気がつか なかった。クラブはFBIの襲撃を受けた。
 ヘレンは従業員とともに逮捕者名簿に記載 され、指紋押印を受け、拘留された。弁護士 が一人千ドルの保釈手続きをするのに、ほと んど一晩かかった。
 しかし、一九二九年、ヘレンは映画『アプ ロ−ズ』に出演し、そのうえ自分の店で、朝 方まで働いた。
 ヘレンはいつもお酒を飲むのが大好きで、 舞台に上がる前にブランデ−を小さいグラス で数杯、飲み干していた。
『ショ−・ボ−ト』は、以前の輝きを失いか けていた。
 一九三三年に、ヘレンはヨ−ロッパ旅行を したが、帰国後二週間して、モ−リス・マシ ュケなる男と結婚した。もっとも、夫婦とし て一緒に暮らしたのは、ほんの二、三週間の ことだった。一九三五年六月には離婚した。
 それからの数年、ヘレンはクラブや映画、 それに舞台の仕事をとぎれとぎれにしていた が、評判は下がりかけていた。
 一九三六年には、マシュケとの離婚と『シ ョ−・ボ−ト』の映画版が公開され、ジュリ −を演じたのが評判になった。
 ヘレンは三十六歳だったが、すでにひどい アル中になっていた。
 ヘレンは、二人の既婚者、二カ月付き合っ た俳優、数週間の最初の夫、晩年の三カ月結 婚していた本物の”ビル”、車のディ−ラ− のロイド・ジョンソンと、相手を変えてきた。 「でも、誰にものめりこんだりはしなかった わ」
 一九四一年七月、ヘレンは二番目の夫とな るロイド・ジョンソンと結婚したが、すでに このときにはヘレンの健康状態はよくなかっ た。結婚して、わずか三カ月後に、ヘレンは 一人になった。
 ヘレンは四十一歳で肝硬変で亡くなった。  一九四一年十月十一日、母のルルと二番目 の夫、ロイド・ジョンソンが葬儀を取り仕切 った。イリノイ州のラグランジの聖フランシ ス・ザビエル・ロ−マ・カソリック教会で行 われた。
 ヘレンのすき通るような声で歌う、心を揺 さぶるナンバ−に『ジ・ワン・アイ・ラヴ・ ビロング・ツウ・サムワン・エルス』(愛す る人は誰かの者)という歌詞がある。彼女に 一生のあいだにそういう関係の男がいた。
 男の名はア−サ−・ロウ。ア−サ−はのち にMGM(メトロ・ゴ−ルド・メイヤ−)の 社長になった。
 ロウは、ニュ−ヨ−クの多くのクラブをも ち、ロングアイランドの美しい家に住んでい た。彼には妻がいたが、ヘレンにとってはた だ一人の男だった。
 ヘレンはいつかロウと一緒になれる日がく ることを夢見ていた。自分が結婚していると きもずっと・・・。
 その日まで、ピアノの上に座り、『マイ・ ビル』(私のビル)『愛さずにはいられない』 の二つの歌に苦しい恋の思いを託した。
 あの人は私のビル 普通の人
 私が自慢できるようなものは
 彼には何ひとつないけれど
 それでも腰も低いし
 気楽で大きくて
 私にはとても自然のままに見える
 ああ うまく説明できないわ
 私が震えてしまうのは
 もちろん彼の頭がいいからじゃない
 私があの人を愛しているのは
 彼が よくわからないけど
 私のビルだから
 (『マイ・ビル』)

一覧に戻る

このサイトはIE4.0以降のブラウザでご覧ください
Copyright (C)Atsuo Inoue 1998-2004 無断転載禁ず
このページはリンク設定自由ですが、
リンクを設定した旨を電子メールにてお伝えください。
書籍を購入される方は、
書籍名で検索してください→


This site powered by H.ozaki