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ヘレン・モ−ガン(歌手)Helen Morgan
1900−−1941
女主人 hostess
あなたは偉大な歌手、ヘレン・モ−ガンを
知っているだろうか?
一九二〇年代のシカゴ。ピアノの上に座り、
トレ−ドマ−クのスカ−フを掴んでト−チ・
ソングを披露した歌手ヘレン・モ−ガン。
ニュ−ヨ−ク・ブロ−ドウェイやクラブの
女主人としても知られた。
ヘレン・モ−ガンの母、ルルは一九〇〇年
年に、トロントで、自分が妊娠していること
を鉄道員の夫トムに告げたとたんに捨てられ
てしまった。鉄道の食堂で朝六時から八時間
交代で、ヘレンが生まれた当日まで働いた。
次の日には、赤ん坊を籠に入れて働きに出た。
五年後に家出をした夫トムが戻ってきたの
で、一緒にイリノイ州ダンヴィルに行ってや
り直そうとしたが、結局トムは誠意を示さな
かった。彼はウィスキ−を控えることも、定
職につくこともせず、ヘレンが十二歳になる
前にふたたび姿を消した。このときから母と
と娘のヘレンはお互いに助け合うようになっ
た。
ダンヴィルでもルルは食堂に勤めたが、ヘ
レンも同じ職場で働いた。ヘレンは客からは
フランス系カナダ人のフォ−クソングを、ル
ルからは『草競馬』のようなフォ−クソング
を習った。
十二歳の少女は、フォ−クソングを歌って
お客たちを楽しませた。そのことがちょうど、
鉄道の食堂で働く女性たちの生活を調べてい
た元舞台女優のエイミ−・レスリ−の目に留
まった。暮らしぶりに感動したレスリ−は、
モントリオ−ルのクラブに紹介すると言った。
ルルとヘレンは少しでもましな生活を送れる
のであれば、どこでもよかった。二人にとっ
て新しい世界への出発だった。
ヘレンはきれいな娘に成長して、シカゴで
は、ミス・イリノイに、カナダではミス・マ
ウント・ロイヤルに選ばれた。その賞品のニ
ュ−ヨ−ク旅行をきっかけに、母と娘はニュ
−ヨ−クに出た。
一九一九年、母のルルはデパ−トの売り子
となり、ヘレンは画家のモデルとして働くよ
うになった。
翌年一月十六日に、禁酒法が施行された。
ヘレンはミュ−ジカル『サリ−』のオ−デ
ィションを受け、コ−ラスラインとしてわず
かな給料をもらうことになる。当時の主演女
優のマリリン・ミラ−(マリリン・モンロ−
は彼女から名前をとったともいわれる)は、
週三千ドルのギャラとショ−ビジネス史上初
の収益の歩合を取るという契約をしていた。
ヘレン・モ−ガンの美貌と歌手の才能が少
しずつ認められるようになった。
一九二五年のブロ−ドウエイ・レヴィユ−
『スキャンダル』に出演してから、ヘレンの
運は上昇し始めた。二六年には、『アメリカ
−ナ』に参加した。そのころから、聞き手の
胸にしみ通るような歌声のバラ−ドの『ノ−
・バディ・ウォンツ・ユ−』(誰もあなたを
欲してはいない)が彼女の売り物になった。
ヘレンは自分のクラブを経営するようにな
ったが、彼女は暗黒街とのつきあいもできた。
数件のクラブを経営するようになり、どこも
成功した。
当時、”スピ−ク・イ−ジ−”の女主人と
してヘレンの名前は”テキサス”と並んでも
っとも知られた白人女性だった。テキサスは
その名の示すとおり、あらっぽい性格だった
が、ヘレンはどこかおっとりとしていた。
といっても、ヘレンが警察の手入れと標的
かからはずされたわけではない。
一方でヘレンはブロ−ドウェイ・ミュージ
カル『ショ−・ボ−ト』に出演して成功を収
めたが、経営するクラブが手入れを受けて逮
捕され、拘留されて千ドルもの大金の保釈金
でようやく釈放された。
『ショ−・ボ−ト』の公演は五百七十二回も
続き彼女が歌う曲は、彼女のテ−マ・ソング
にもなった。
一九二七年十二月二十九日、「シェ・モ−
ガン」は満員だった。オ−ケストラの演奏で
ヘレンは一回目のショ−を終えたところだっ
た。
ヘレンはバ−にいた新聞記者に飲み物を注
文してやったが、突然、席を立って部屋から
出ていった得体のしれない二人には気がつか
なかった。クラブはFBIの襲撃を受けた。
ヘレンは従業員とともに逮捕者名簿に記載
され、指紋押印を受け、拘留された。弁護士
が一人千ドルの保釈手続きをするのに、ほと
んど一晩かかった。
しかし、一九二九年、ヘレンは映画『アプ
ロ−ズ』に出演し、そのうえ自分の店で、朝
方まで働いた。
ヘレンはいつもお酒を飲むのが大好きで、
舞台に上がる前にブランデ−を小さいグラス
で数杯、飲み干していた。
『ショ−・ボ−ト』は、以前の輝きを失いか
けていた。
一九三三年に、ヘレンはヨ−ロッパ旅行を
したが、帰国後二週間して、モ−リス・マシ
ュケなる男と結婚した。もっとも、夫婦とし
て一緒に暮らしたのは、ほんの二、三週間の
ことだった。一九三五年六月には離婚した。
それからの数年、ヘレンはクラブや映画、
それに舞台の仕事をとぎれとぎれにしていた
が、評判は下がりかけていた。
一九三六年には、マシュケとの離婚と『シ
ョ−・ボ−ト』の映画版が公開され、ジュリ
−を演じたのが評判になった。
ヘレンは三十六歳だったが、すでにひどい
アル中になっていた。
ヘレンは、二人の既婚者、二カ月付き合っ
た俳優、数週間の最初の夫、晩年の三カ月結
婚していた本物の”ビル”、車のディ−ラ−
のロイド・ジョンソンと、相手を変えてきた。
「でも、誰にものめりこんだりはしなかった
わ」
一九四一年七月、ヘレンは二番目の夫とな
るロイド・ジョンソンと結婚したが、すでに
このときにはヘレンの健康状態はよくなかっ
た。結婚して、わずか三カ月後に、ヘレンは
一人になった。
ヘレンは四十一歳で肝硬変で亡くなった。
一九四一年十月十一日、母のルルと二番目
の夫、ロイド・ジョンソンが葬儀を取り仕切
った。イリノイ州のラグランジの聖フランシ
ス・ザビエル・ロ−マ・カソリック教会で行
われた。
ヘレンのすき通るような声で歌う、心を揺
さぶるナンバ−に『ジ・ワン・アイ・ラヴ・
ビロング・ツウ・サムワン・エルス』(愛す
る人は誰かの者)という歌詞がある。彼女に
一生のあいだにそういう関係の男がいた。
男の名はア−サ−・ロウ。ア−サ−はのち
にMGM(メトロ・ゴ−ルド・メイヤ−)の
社長になった。
ロウは、ニュ−ヨ−クの多くのクラブをも
ち、ロングアイランドの美しい家に住んでい
た。彼には妻がいたが、ヘレンにとってはた
だ一人の男だった。
ヘレンはいつかロウと一緒になれる日がく
ることを夢見ていた。自分が結婚していると
きもずっと・・・。
その日まで、ピアノの上に座り、『マイ・
ビル』(私のビル)『愛さずにはいられない』
の二つの歌に苦しい恋の思いを託した。
あの人は私のビル 普通の人
私が自慢できるようなものは
彼には何ひとつないけれど
それでも腰も低いし
気楽で大きくて
私にはとても自然のままに見える
ああ うまく説明できないわ
私が震えてしまうのは
もちろん彼の頭がいいからじゃない
私があの人を愛しているのは
彼が よくわからないけど
私のビルだから
(『マイ・ビル』)
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