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追憶
マリリン・
モンロー

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リリアン・ヘルマン(劇作家) Lillian Hellman
1905.6.20−−1984.7

生存者 survivor

 攻撃的な知性をもつ作家リリアン・ヘルマ ンは、ナチズムの台頭、欺瞞の暗示、貪欲の 恐ろしさといった深刻な問題を扱う劇を作り 続けた。しかも、ブロ−ドウェイ向けの女流 作家たちがみな、軽薄で他愛のないコメディ を粗製乱造していた時代に。
 ヘルマンの人生について語るには、真実を 見抜く鋭い勘を必要とする。なにしろ、ヘル マンは何度も自分を偽りながら人生を生き抜 いたのだから。
 やっかいな議論が始まる・・・初めの初め から。ヘルマンは自分がいつ生まれたかわか らないと言い張った。父親から一度も年齢を 教わらなかったうえに、病院の記録も火事で 消失してしまったからだという。
 しかし、ヘルマンの出生証明書はニュ−オ リンズの、火事にあったこともない人口統計 局にちゃんと残っている。それによると、生 年月日は一九〇五年の六月二十日となって いる。つまり、ヘルマンは、その場に応じて 実際より若くサバを読んだり、年上にサバを 読んだりしていた、ということになる。
 父は衣服会社のセ−ルスマンで、一年の半 分ずつをニュ−ヨ−クとニュ−オリンズで過 ごした。リリアンは派手好きで社交的な父に 憧れていた。ある日、彼女は父親と愛人(フ ィ−ジ−)とのロマンスの現場を偶然目撃し、 深く傷ついた。
 ヘルマンは回想録にこう書いている。
「かれらがなにをするのかをも見定めて二人 とも殺してやりたいという激しい欲求にかり たてられた。一時間後、わたしは無花果の木 のてっぺんから身を投げ、鼻を折った」(『 未完の女』稲葉明雄・本間千枝子訳)
 ヘルマンはつねに、自分は十五歳で高校を 卒業したと言い張っていた。高校の記録(こ れも火事で焼けてなどいない)によれば、ヘ ルマンは十七歳まであと数日というところだ ったようだ。次に待っていたのは、ニュ−ヨ −ク大学でのごく短期間の報われない学究生 活だった。ヘルマンは退学になる寸前にみず から中退している。
 その後、ヘルマンは一流出版社ホラス・ラ イヴライトに入社した。だが、ヘルマンが妊 娠していることは誰の目にも明らかだった。 そしてその後七回もすることになる違法な中 絶手術の第一回目を受け、その半年後に赤ん 坊の父親だった男、ア−サ−・コウバ−と結 婚した。コウバ−は内気な優しい男で、脚本 家になることを夢見ていた。
 夫婦はパリへと旅立つが、そこでまさに始 まろうとしていた国外生活者のシ−ン”ロス ト・ジェネレ−ション”には加われなかった。 まもなくヘルマンはヨ−ロッパ大陸を一人で 旅するようになり、何人かの男とごく軽い気 持ちで関係をもった。
 アメリカに戻ると、ヘルマンはブロ−ドウ ェイのプレス・エ−ジェント、シナリオ・リ −ダ−と職を転々とした。
「ダッシュ(ダシ−ル・ハメットの愛称)と 会ったときは、私は文無しでした」
 ヘルマンの人生を大きく変えることになる ダシ−ル・ハメットとは一九三〇年に、ハリ ウッドのレストランで出会った。
 その男は三十六歳、『血の収穫』『マルタ の鷹』などで知られる探偵小説のベストセラ −作家。二十五歳のヘルマンは毎日、撮影所 に届けられるおびただしいシナリオを読んで 感想を書くMGMのシナリオ・リ−ダ−にす ぎなかった。
 ハメットは長身で、ワラのようにやせ細っ た美男、髪は雪のように真っ白だった。
 ヘルマンはハメットの腕をぎゅっと掴んだ まま放そうとしなかった。
 当時、ヘルマンとハメットの二人とも結婚 していて、どちらの結婚も破綻しかけていた し、恋人もいた。ヘルマンは作家だった夫の ア−サ−・コウバ−と離婚した。ハメットも 結局は離婚したが、ヘルマンとハメットは結 婚しなかった。
 ヘルマンはハメットの恋人として著名人の 世界に入りこむと、自分もその一員になりた いと思うようになった。
 ハメットはヘルマンに身を立てさせようと スコットランドの女教師二人がレスビアンと して告発されて、そのさなかに職を失うとい う実話を紹介した。
 一九三四年に、ヘルマンの処女作『子供た ちの時間』(のちに映画化された『噂の二人 』)がブロ−ドウエイで上演され、連続六九 一回上演の記録を作った。題材になった事件 にはもちろん、ハメットにさえ、一言の謝辞 も寄せていない。原稿の一行一行に磨きをか けるのを手伝ったハメットにさえも。
 二作目は不評だったが、それ以降は劇作家 としての地位を確立したのだった。
 作品にハメットはインスピレ−ションを与 え、何度も書き直しをさせ、励ましながら仕 事に追い立てた。二人は同棲生活を続けたが、 何度も喧嘩別れしそうになった。
 戦後、米ソの対立が激しくなると、アメリ カには反ソ、反共の気運が高まった。少しで も共産党や左翼に関わりがあるとされた人び とはFBIによって、監視された。
 とくにハリウッドはCIAが眼をつけ、映 画関係者がぞくぞくと検挙されたり、尋問を 受けた。
 ジョゼフ・マッカ−シ−の赤狩り聴聞会の 質問に対する返答を拒否したとき、ヘルマン はこう述べた。
「今年の流行に合わせるために、良心まで切 り落とすわけにはいきません」
 二人は三十一年間もの年月をともにしたが、 赤狩りの時代は、「つかず離れずの生活」を 送った。
 理由の一つにはハメットの度重なる浮気が あげられる。長身で美男のハメットは探偵小 説の主人公を地でいく生き方をしていた。女 性によくもてたし、外国人娼婦を相手にした こともある。
 ヘルマンはハメットの女性関係について腹 を立てた。
 しかし、そのたびにハメットはこう言い訳 した。
「本当にに愛しているのは、きみだけだ。他 の女と寝るのはマスタ−ベ−ションでしかな いんだ」
 ヘルマンはそれでも、ハメットの女性関係 に嫉妬していた。いつも言葉を荒げるのは、 彼女のほうだった。
 ヘルマンはハメットに対する復讐の意味も あって、結婚を考えるようになった。ハメッ トは自分の「許可」がなければ、結婚しては いけないと言った。結局、その言葉を守った 形でヘルマンは結婚しなかった。
 ヘルマンの自伝『ペンティメント』をもと に映画『ジュリア』が作られた。
 書きあげた作品をヘルマンは、ハメットに 見せる。ハメットは首を横に振る。ヘルマン は、タイプライタ−を窓から捨てる。
 しかし、ヘルマンは必死になって、作品を 書きあげた。ハメットはようやく認めた。
 二人の性生活は一九四二年の夏を限りに完 全に断たれた。ハメットが酔って言い寄って きたので、それを拒否したためである。以来 二度と求めなかった。
 まもなくハメットは陸軍に入隊し、ヘルマ ンは終始ソ連に共感していたため、ソ連に招 待された(FBIが密かに、その後を追った)。  ヘルマンはモスクワで海外勤務の外交官、 ジン・メルビ−と恋に落ちた。
 彼女はこの年、初めてハメットの助けを借 りないで『肌をさす嵐』を書いている。
 一九六一年一月十日、ヘルマンがハメット のために用意したニュ−ヨ−クのアパ−トで ハメットは肺がんのために死亡した。
 ヘルマンには、ハメットが生きていたころ も、その後も何人もの恋人がいた。
 ヘルマンが三十五歳のときに、十歳のピ− タ−・フィ−ブルマンと知り合った。
 以後、フィ−ブルマンとは彼女が亡くなる まで関係が続いた。
「行動的で男性的な面が多かった。社交的だ が、口うるさくて、狡猾な女性」
 とフィ−ブルマンは言う。
「だが、魅力的な女性だった」
 ハメットの死後、二十三年間、一九八四年 に死ぬまでのヘルマンは世間からもてはやさ れ、恐れられ、また名士として、講演者とし て活躍した。
 一九八〇年代の半ばを過ぎると、ヘルマン はほとんど視力を失っていた。少なくとも一 度は心臓発作を起こし、卒中にも苦しんだ。  ヘルマンがもう長くないと聞かされて、フ ィ−ブルマンが「気分はどう? リリアン」 と聞くと、「ちっともよくない・・・ちょっ ともよくないわ。作家としてこれほどひどい 妨害にあったのは初めてよ」
 その数日後、一九八四年六月三十日、ヘル マンはこの世を去った。
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