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田中絹代(女優)Kinuyo Tanaka
1909.12.29−−1977.3.21
軽薄 frivolous
「私は映画を夫に選び、映画と結婚したので
す」
「結婚するチャンスはありながら、とうとう
踏み切ることができませんでした」
日本映画生え抜きの名女優、田中絹代は、
明治四十二年(一九〇九年)十二月、山口県
下関市にある母ヤスの実家で生まれた。絹代
という名前は、絹餅のような肌になる願いを
こめてつけられた。
絹代が生まれたころは、小林家は没落し、
呉服商を営んでいた父も商売がうまくいかず
に、この世を去った。
母のヤスは大阪に出て、新しい生活を始め
た。内職をしながら、子どもたちを養った。
絹代は転校した大阪天王寺の尋常小学校に
かよいながら、筑前琵琶を習った。師匠の宮
崎錦城は琵琶少女歌劇という劇団を興した。
大阪の歓楽街、楽天地の小屋で、絹代は十
歳で舞台に立った。琵琶の稽古に夢中になっ
たまり小学校も中退してしまう。この楽天地
で絹代は映画と出会う。
絹代は、稽古や舞台の帰りに、当時新しい
娯楽である映画に熱中した。絹代の心をとら
えたのは、大スタ−として君臨した美貌の栗
島すみ子であった。
絹代も映画スタ−になりたいと夢見た。そ
の夢を実現させるきっかけとなったのは、松
竹の大阪支社に給仕として働いていた三番目
の兄晴雄だ。
大正十三年八月に、絹代は松竹の撮影所に
出入りすることができ、大部屋女優の一人と
してスタ−トしたが、すぐに、役がついた。
松竹蒲田で女優としての生活を始めた。十
五歳で、絹代は一家の生活を支えることにな
る
昭和二年の五所平之助監督の『恥しい夢』
が、最初の主演作となった。
この作品が絹代自身も認めるように、スタ
−になるきっかけとなった。次作の『真珠夫
人』では、憧れの栗島すみ子の娘役を演じる
ことができた。大部屋女優から、準幹部へと
出世した。絹代は十七歳だった。
絹代の恋の相手は、下加茂時代から、なに
くれとなく面倒を見てくれていた監督の清水
宏であった。しかし、母ヤスは結婚に反対し
た。いまや絹代はスタ−として注目されてい
ただけに、人気が落ちると心配したのだ。
清水から絹代との結婚の意思を伝えられた
撮影所所長の城戸四郎は、「試験結婚」を提
案した。うまくいくかどうか試してみては
どうかというのである。
昭和三年には、当時絶大な人気があった鈴
木伝明と『近代武者修業』(牛原虚彦監督)
で共演したが、これがヒットして松竹蒲田の
ドル箱シリ−ズになった。
ある日、酔って帰ってきた清水が絹代の言
葉に激怒して、手をあげた。
殴られた絹代はこう言った。
「くそっ、おしっこをしてやる」
「やれるものならやってみろ」(『小説田中
絹代』)
絹代は、座敷に音を立てて本当におしっこ
をしてしまった。こうして、二人の仲は終わ
ったのだった。
昭和五年には五所平之助監督の『絹代物語
』という女優の名前が映画のタイトルになる
ほどの人気を得た。
翌、昭和六年の『マダムと女房』(五所平
之助監督)は、日本初のト−キ−として映画
史に残る作品である。絹代はサイレント時代
のスタ−として出発したが、ト−キ−の新し
い時代に迎えられた。
二十五歳になった絹代は、名実ともに松竹
のナンバ−ワンの女優であった。絹代は当時
高級別荘地だった鎌倉山に、五百坪の家を購
入。絹代の給料は八百五十円にもなっており、
当時の総理大臣の給料と比べても少しも遜色
はなかった。
昭和十三年に公開された『愛染かつら』(
野村浩将監督)は、日本全国を巻きこむ大ヒ
ットとなった。田中絹代の扮する子持ち看護
婦と上原謙の若い医師の悲恋の物語だ。この
『愛染かつら』は、シリ−ズ化され、絹代は
ふたたび人気を取り戻した。
絹代は多くの恋をした。当時慶応野球部の
名選手だった水原茂、映画プロデュ−サ−、
カメラマンなど。
三十歳を目前に、絹代は新しい展開をする。
溝口健二監督の映画『浪花女』に念願の出演
を果たした。この撮影は昭和十五年夏に行わ
れたが、溝口演出の厳しさは絹代の想像をは
るかに越えていた。
映画は文楽三味線の名手豊沢団平とその女
房お千賀の物語だが、撮影に入る前に、膨大
な量の参考資料を読まされる。撮影現場では
溝口の厳しい指示が待っていた。溝口の完璧
主義が、絹代を悩ませた。
「あなたはお金をとっているんでしょ。それ
だけのことをやりたまえ。田中さん、気持ち
が反射していますか」(『小説田中絹代』)
この気持ちが反射していますか、というの
が溝口の口癖だった。溝口は、具体的な演技
の指導をせずに、執拗にダメ押しをするのだ
った。
昭和二十二年、溝口は絹代をヒロインにし
た『須磨子の恋』を企画した。が、おなじ松
井須磨子をテ−マにした企画が衣笠貞之助監
督山田五十鈴主演で進んでいた。
作品の質も興業的にも、絹代の『須磨子の
恋』が勝り、毎日映画コンク−ルの女優演技
賞が贈られた。
溝口と絹代との恋の噂が立ったのは、この
ころである。
しかし、溝口は結局は、絹代にプロポ−ズ
することができなかった。
翌二十三年、絹代は『夜の女たち』(溝口
監督)と『風の中の牡鶏』(小津安二郎監督
)の二本で、二年連続して、毎日映画コンク
−ル女優演技賞を受賞している。
絹代の人気を急降下させた出来事が起きた。
アメリカ視察旅行をして、その帰国パレ−
ドで手を振り、投げキッスを送ったのだ。
「フ、フ−ン」
記者のインタビュ−にも、アメリカ式の抑
揚をつけた相づちを打ったのだから世間の顰
蹙をかわないわけはない。当時はアメリカナ
イズされることが嫌われる時代だった。
「大衆の心を逆撫でにするお馬鹿さん」
と誰もが思った。
その点で、賢いのは、女優李香蘭こと、山
口淑子だ。彼女はアメリカに行ったとき、「
キスの勉強をしにきました」とインタビュ−
で答え、大衆の目には可愛い女と映った。
窮地にあった絹代に救いの手を差しのべた
のが溝口健二監督だった。
昭和十七年の『西鶴一代女』(溝口監督)
は、ベニスの国際映画祭に出品されて、ジョ
ン・フォ−ド監督ともに、国際監督賞を受賞
することになった。
女優として高い評価を得ながら、絹代は主
演女優としてやっていくことに限界を感じて
いた。四十二歳になった絹代は、監督に転身
したが、そのことが溝口との関係に亀裂を生
んだ。
「絹代のアタマでは監督はできません」と溝
口が言った。
六十歳を過ぎてからは、『サンダカン八番
娼館』やTVドラマ『りんりんと』などに出
演した。
だが、晩年は淋しいものだった。
金銭的にも不自由した。
「桜の咲くころは、きっと鎌倉の家に帰って
お花見をするからね」
従弟の小林正樹監督に残した言葉が最期に
なった。
最後は痰が詰まって苦しむので、咽喉に穴
を開けた。昭和五十二年三月二十一日、脳腫
瘍のため亡くなった。六十七歳。
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