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江青
1914.3.−−1991.5.14

復讐 revenge

 悪女、妻、女優、野心家、愛人、グレタ・ ガルボ信奉者、イプセン愛読者、共産主義唱 導者−−江青の異名だ。
 江青の一生は「復讐と野望」に彩られてい る。まず、幼いころの貧困と搾取への復讐。  江青は、女優を目指すが、「スターダムに 乗れるところだったのに、国民党の宣伝映画 に出ることを強要されたので断念した」のだ った。
「これを画策したのが、四人組の悪党ども。 そのために、あらぬ中傷を書き立てられた」 と江青は復讐心に燃えた。
 江青の生涯には何人もの男が登場するが、 毛沢東の存在は大きい。彼との間には、李納 という娘をもうけた。
 一九三七年、日中戦争が激しくなり、戦火 は上海にまでおよんできた。その上海を江青 は脱出し、西安にたどり着いて、さらに洛河 に沿って北上して延安を目指した。そこには、 共産党の首都があった。
「ずっと歩き通しでした。一文なしで、何度 か危ない目に遭ったけれどなんとか生き長ら えたわ」  江青は細い足がむくんでいるのが気になっ た。若い共産党員たちが全員出て彼女を歓迎 した。ほっそりとした若くて美しい女優だ。 上海からきた売り出し中の新進女優に男たち の眼が輝いた。
 江青は男好きのする顔に、もって生まれた 性的魅力がある。上眼使いに話して男に媚を 売る方法も身につけていた。  そんな女性が中国共産党の最高指導者、美 男で権力もある人気絶大な毛沢東と出会った。 「もの静かで、知的な美人」が好みという毛 沢東にぴったりとあっていたのが当時の江青 だ。女好きな彼が見逃すはずはなかった。
「彼は美男で、大学教授みたいだった」
 講演する毛沢東に積極的にアプローチして、 疑問点があれば押しかけて行って質問をする 彼女の行動力が二人を急速に近づけた。  ときに江青二十三歳。毛沢東は四十五歳。 二十二歳の年齢差は、まったく問題とならず、 二人は熱愛した。
 当時毛沢東には賀子貞という妻がいたが、 夫妻の間は冷えきっていた。江青と毛が愛人 関係になるのに時間はかからなかった。
 毛沢東の愛人になった江青は、やがて正妻 になることを望んだ。
 問題は党の承諾である。江青は男性遍歴が 多いうえ、結婚する相手が自殺未遂までして スキャンダルを起こしている。その女性を正 式な毛沢東夫人として認めるわけにはいかな い。それに当時、女優の地位は著しく低かっ た。評判のよくない映画女優、江青が認めら れないのは当然だろう)。
 この二人の間を取りもったのは、周恩来と 江青の同郷である康生だ。
 毛沢東夫人とは呼ばず、江青同志と呼ぶこ と。江青は党の職務には関わらず、毛沢東の 身辺の面倒だけを見る。しぶしぶながら、江 青はこの条件をのんで結婚した。
「私はファーストレディよ、こんな屈辱的な 条件を絶対に許すものですか」
 当時は毛沢東を愛していたが、このお返し はいつかすると決めた。
 賀夫人と別れる前に、毛沢東には数人の女 性がいた。
 江青は後年、毛沢東との関係を述懐してい る。
「セックスは、最初は重要な要素になるけれ ど、その後は男に権力があるかどうかが大切 なの」
 江青の本名は李青雲(李雲鶴という別名あ り)一九一五年三月、中国山東省の諸城生ま れ(一九一二年、一四年説もある)。その町 の中流家庭に生まれたが、両親が離婚したた め、貧乏な少女時代を送っている。(父が死 亡したとも)貧しい大工の家庭だったともい われる。
 最初、親類のもとに引きとられたが、母は 住みこみの職を見つけて最低の生活をなんと か維持してきたのだった(母が身を売ってい たという噂もある)。
「いつも腹をすかしていたし、汚い身なりな ので、苛められてばかりいたけれど、泣きは しなかった」
 そんな江青は、やがて済南の小学校を出る と、山東省立の演劇学校に入った。授業料も 食費も無料で、多少だが、手当てもくれると いうのが何より嬉しかった。当時の世相は不 安定で、辛亥革命で清王朝が倒れ、中華民国 として生まれ変わったばかりだった。
 一九二九年に、江青は巡回劇団に加わる。 三三年には、青島で入党。一九一五年生れ説 をとると、当時まだ十八歳だ。
 女優グレタ・ガルボに心酔していて、映画 好きな江青は女優になる決心で上海に出る。 諸城という小さな田舎町から大都会に出るの は勇気がいった。女優になって有名になると いう女心と、共産党員として忠実であろうと する彼女の葛藤が始まったのもこのころだ。  青島で最初の結婚をし、上海では唐納(監 督であり、著名な批評家でもあった)と再婚 した。
 一九三〇年代の上海は東洋のパリと呼ばれ た国際都市。この魔都上海は、あらゆる人間 の欲望がうずまく場所で、彼女は生きた。
 彼女は、貧しいが野心をもった女性で、い い役を得るために上海の映画会社に足しげく かよった。監督で共産党幹部の張健の情婦だ ったとか、手段を選ばない「淫乱な女」とも 噂された。(当時江青は、藍ぴん=青い林檎 と名乗っていた)。
 江青が二人の子どもを残して唐納を捨てる と、彼は自殺すると脅した。新聞はその話を 煽情的に取りあげ、藍ぴんに罪をかぶせ、悪 意のある醜聞を書きたてた。
 そして毛沢東と出会うのは、先に述べた一 九三七年のことだ。
 一九三九年、毛沢東と結婚した後、江青は 平凡で従順な主婦となった。それが党の指導 者たちが取り決めた結婚の条件だった。
 一九四九年、共産党は国民党を打ち破り、 ついに中華人民共和国を成立させた。毛沢東 の時代になるが、それに比べて江青との愛は 急速に冷めていく。
 毛沢東は新しい女を見つけた。それを黙認 する代わりに、江青は四人組を組織して、政 治の表舞台に出始めた。まるで、嫉妬に狂っ た女が片端から「恨みつらみ」を何かにぶつ けるように、ヒステリックで残酷な行動に出 た。
 文化大革命(一九六七年)の主役として、 ふたたび政界に浮上したのである。
 京劇に現代的なレパ−トリ−を演じさせよ うとした。そのレパ−トリ−は、いつも共産 革命の讃美をテ−マにしていた。
 紅青は粛清の陣頭に立ち、旧幹部の吊るし あげをした。
 過去を知る邪魔者は無差別に殺した。その 数は、「十人や二十人ではないだろう」とい われる。すさまじいばかりの殺戮を断行した。 これには年老いた毛沢東には手がつけられな かった。
 しかし、一九七六年に毛沢東が死ぬと江青 は四人組とともに捕らえられ、投獄された。 四人組の裁判はテレビで公開されたが、三人 の男たちが、憔悴しきっているのに対して、 江青だけは怒鳴り散らしながら自己を正当化 し、最期まで闘い続けたのだった。
 江青は権力を手に入れ、維持し、そして失 うための教訓を、二十世紀のどの政治権力者 にも引けをとらないくらい多くを学んだ。
 一九九一年六月五日の『人民日報』第四版 の右下隅にこんな記事が載った。
「江青が自殺。
一九九一年五月一四日早朝、北京の自宅で 自殺をはかり死亡した」
 江青は一九八一年一月、最高人民法院特別 法廷で死刑判決を受け、二年間の執行猶予と 政治権利の修身剥奪をいいわたされた。
 一九八三年一月に無期懲役に減刑され、八 四年五月四日より、所外監視による療養中で あった(『上海の紅いバラ』)
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