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 イメルダ・マルコス(大統領夫人) Imelda Marcos
1929.7.−−

鉄面皮 impudent

「三千足なんてもっていません。千六十足で す」
 元フィリピン大統領夫人として悪名をとど ろかせた。膨大な靴(シュ−ズ)のコレクシ ョンで記録に残る。
 品目はピンヒ−ル、上靴、部屋ばき、モカ シン、サンダル、プラットフォ−ムシュ−ズ、 パンプス、ロ−ファ−、ラウンジャ−、オ− バ−シュ−ズ、ボタンアップ、エスドリ−ユ、 ハイヒ−ル、メリ−ジェ−ン(エナメル革の ロ−ヒ−ル)、テニスシュ−ズ、ゴルフシュ −ズ、乗馬用ブ−ツ。
 イメルダは一九二九年七月、フィリピンの レイテ島のタクロバンに生まれた。父は著名 な法律学者で、一族には最高裁判所判事、銀 行の頭取、マニラ市長など多くの有名人がい る名門ロムアルデス家の出身である。
 しかし、イメルダが住んでいたのは崩れか けたような家だ。名門とはいえ、生活は貧し かった。が、イメルダの性格は明るく、学校 の成績も良かった。家族の仲も良く、一家で よくピクニックに出かけた。イメルダは歌が 得意で、みんなの中心にいた。
 十八歳のときに、イメルダは地元レイテ島 タクロバン市の美人のコンテストで優勝、「 タクロバンのバラ」に選ばれた。
 イメルダは行事があるたびに、パレ−ドの 先頭に立ち、歌を歌い、当時すでにアイドル 的な存在だった。
 やがてセントポ−ル大学、さらにフィリピ ン大学で学ぶことになる。
 セントポ−ル大学では、学生自治会の会長 をつとめた。イメルダはキャンパスでも人気 者で、男性だけでなくて、女性にも支持され た。
「純真で真面目な生徒」
 イメルダに対する印象は良かった。
 のちにイメルダのイメ−ジは「権力欲が強 い、鉄面皮」になるが、当時はそういった面 はほとんど見られない。
 多くの男たちが求婚したが、イメルダは誰 も相手にしなかった。
 イメルダはひたすら、歌の才能を磨きたい と思い続けていたのである。
 そのためには、大都会のマニラに出たいと 夢見ていた。
 一九五二年、イメルダは憧のマニラに出た。 銀行に勤めながら、フィリピン女子大音楽部 の聴講生として歌のレッスンに励んだ。
 そのころ、ミス・マニラ・コンテストに出 場した。
 最初、コンテストではイメルダは準ミスだ った。結果に不満な彼女は市長に直談判に行 くのだ。
「どうして私じゃないの? ミスに選ばれた 娘には、有力者の後ろ楯があったんじゃない の!」
 そうねじこまれた市長は、イメルダをミス に選んだ。
 すると今度は、先にミスに選ばれていた女 性から文句が出た。
 結局、その年はミス・マニラが二人出るこ とになった。
 その顛末が新聞に掲載された。その記事を 興味深く読んでいたのが、当時三十六歳、下 院議員のフェルナンド・マルコスである。
マルコスは抗日戦線の英雄で、優秀な法律家 として出世街道を歩みつつあった。将来の大 統領を夢見る野心家でもあった。
 その男が、イメルダの美しさと、家柄の良 さ、そしてミス・マニラ騒ぎで見せた意志の 強さに魅かれたのである。積極的行動に出た。  イメルダの勤める銀行まで押しかけて行き、 「結婚してくれれば、あなたは大統領夫人に なれる」とダイヤモンドを毎日一個ずつ、十 一日間欠かさずに、贈り続けた。あるときは 、札束を「僕の財産のほんの一部です」とも ってきたりした。
 当時イメルダには、すでに心を許した男が いた。クリストン・ナクビルというマニラで も由緒正しい家柄でヨ−ロッパにも留学して いたことがある人物だ。ところが、彼は妻帯 者だった。
 大きく心が揺らいだイメルダは、ついに若 くて美男のナクビルからマルコスに乗り代え たのだ。イメルダ二十四歳、マルコス三十六 歳。
 しかし、イメルダは結婚直後に、大きな失 望を味うことになる。夫には、三人の愛人と 四人の子どもがいたのだ。イメルダはアメリ カの精神科医の相談を受けなければならなか ったほどだ。
「離婚するか、現実を受け入れるか」真剣に 悩んだ末に、イメルダは後者を選んだ。もは や、後戻りはできなかった。
 一九六五年、マルコスはついに大統領選に 出馬した。
イメルダは夫とともに遊説に出かけた。フィ リピン中を旅して、演説し、歌を歌って応援 した。
「百万票は彼女の力だ」
 とマルコスが言ったほど貢献した。
 マルコスは大統領になると、二人は自らの 王朝を築いて私腹をこやした。近親者を次々 と政府の要職につけただけでなく、日本企業 などからリベ−トを受取り、援助資金までも 懐に入れ、賭博の収入も召しあげた。マフィ アとの黒い癒着も噂された。
 イメルダはひそかにスイスの隠し口座に公 金を送ったり、ニュ−ヨ−クの不動産を買い あさった。
 一九八三年の夏、アメリカに逃れていた政 敵のアキノがマニラ空港に着いた。数人の兵 士が彼を機内から連れ出した。
 タラップを降りる寸前に、銃声が響いた。 アキノは後頭部を撃たれて、即死。狙撃犯も その場で兵士たちに射殺された。
 マルコス関与が噂された。
 この事件をきっかけにして、反マルコス政 権の気運がいっせいに吹き出し。暗殺された アキノの未亡人コリ−が激烈にマルコスを糾 弾した。民衆も反マルコスに立ちあがった。  フィリピンは革命に成功し、マルコス夫妻 はアメリカの飛行機でハワイに運ばれた。  一九八六年二月、大統領選挙はアキノ未亡 人のコリ−が劇的な勝利を飾った。
 イメルダっは昔と同じように長い黒髪をた ばねて胸の開いたドレスをまとい囁くような 声で「殿方と張り合おうだなんて可愛げのな い女」と嘲笑した。
 フィリピンに起こった民衆革命で(二月革 命)、マルコス大統領一家は国外に逃亡した。  残されたマカラニアン宮殿には、天蓋つき の巨大なベッド、高価な三千足の靴、無数の ブラジャ−やガ−ドル類が散らばっていた。 まさにマルコス王朝の夢の後、という実体を さらけだした。
「物質文明のなかで、美と愛に忠実であろう とすれば、浪費家だといわれるものよ」
 一九八九年九月に、マルコスが死去。
 イメルダはマルコスの膨大な不正資金作り に共謀したかどで、アメリカ連邦地裁の被告 席に立たされた。すべての訴因に対して、イ メルダは弁明を繰り返した。
「私は全力をあげて夫を助けてきました。な のに私たちは国を追われて、家も名声も奪わ れてしまいしました・・・」
「かつて私はファ−ストレディでのイメルダ でした。いまは剥奪されたイメルダです」
 一九九〇年七月二日、イメルダは証拠不十 分で無実の判決を受けた。
 一九九一年十二月に、イメルダが亡命先の ハワイからフィリピンに帰国した。
 フィリピン政府は裁判で、マルコスの隠し 財産を回収しようと考えた。
 だが、イメルダは支持された。空港に着い たイメルダを待っていたのは、彼女の熱烈歓 迎であった。
「アイ・ラブ・イメルダ」の市民フィ−バ− が沸き起こっていたのである。イメルダはフ ィリピン国民の「愛人」だった。
「美しくあることが国民への使命と信じてい る」とイメルダは得意のパフォ−マンスを発 揮して演説した。
「私は国民の母よ、貧しい人たちを助けたの よ」
 喝采を浴びたのだった。
 一九九二年五月の大統領選に出馬すると宣 言したりした(不出馬)。
 一九九九年七月二日の誕生パ−ティは、最 高級ホテルで行われた。来客のなかにはジョ −ジ・ハミルトンなどのハリウッド・スタ− もいた。
「アイアン・バタフライ(鉄の蝶)がふたた び変態した」とマスコミは書いた。

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