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 ソフィア・ロ−レン(女優)Sophia Loren
1934.9.20−−

重婚 bigamy

「私がこんなふうに見えるのは、すべてスパ ゲティのおかげよ」
 ソフィア・ロ−レンは、一九三四年九月、 私生児として、ロ−マに生まれた。そのため ソフィアの母ロミルダ・ヴィラ−ニの故郷、 ナポリ郊外のポッツォ−リで肩身の狭い思い をしながら育てられた。保守的な当時のイタ リアの社会では、私生児を育てるのは、とて も勇気のいることだった。
 母のロミルダはグレタ・ガルボに似た美人 で、元女優志望でもあった(MGM提供のグ レタ・ガルボそっくりさんコンテストで優勝 したことがある)。その影響でソフィアもピ アノを習ったり、芸能界入りを望んでいた。  デビュ−した一九五〇年から五二年半ばま で、ソフィアは、ラツァ−ロとか本名のソフ ィア・シコロ−ネで出演していた。
 第二次世界大戦中、ソフィアは少女時代を 母と妹マリアとの三人で、空腹と空襲におの のく日々を送った。
 だが、戦後、ソフィアに大きな転機が訪れ た。十四歳になったソフィアは大人びたプロ ポ−ションが近所で評判を呼んで、学校の先 生がプロポ−ズしたほどだった。
 一九五〇年、ナポリで行われた海の女王コ ンテストで、第二位に選ばれたのがきっかけ で、映画界入りの道が開けた。
 ナポリにロケにきていたジョルジョ・ビア ンキ監督に売り込みをかけて端役に出演。ビ アンキ監督のすすめもあって、ソフィアと母 は、ロ−マに移ることになった。
 チネチッタ撮影所で数本の作品に出演、ア メリカ映画『クオ・ヴァディス』に出演が決 まっていたが、英語ができないためにエキス トラにまわされてしまった。
 このころ、カルロ・ポンティと最初の出会 いをしている。当時、ルックス社のプロデュ −サ−だったカルロ・ポンティは、同僚ディ ノ・デ・ラウレンティス製作、シルヴァ−ナ ・マンガ−ノ主演の『アンナ』に出演のチャ ンスを与えた。そして名前もソフィア・ロ− レンと変えさせたのである。
 自ら製作した作品に出演させたポンティも 熱心だったが、ソフィアもそれに応えて、フ ァッション・モデルで生計を立てながら映画 実験センタ−で演技の基礎を学んだ。
 一九五二年、『海底のアフリカ』(日本未 公開)で主役のチャンスを掴んだ。映画は大 ヒットし、出演依頼が殺到した。次作『アイ −ダ』(日本未公開)ではギャラが十倍には ねあがった。そのとき、ソフィアは十九歳。 マネ−ジャ−としてつきそっていた母とやっ と安定した生活を送ることができた。
 ポンティとの名コンビぶりでアメリカ・メ ジャ−とも契約して、その名前は国際的にな ったが、やはり彼女は力強く生きていくイタ リア女を演じたときが最高の魅力を発揮して いる。ポンティとは、一九五七年にメキシコ で結婚したが、彼が先妻との結婚を解消して いなかったため、重婚罪で訴えられた。
 法王庁の機関紙ロッセルバト−レ・デルラ ・ドメニアは「聖職者の手によらない離婚と 結婚は、重大な違法行為である」とソフィア を非難した。
 教会法によれば、有効な婚姻を結んでいる にもかかわらず、新たな婚姻を結んだものは 重婚とみなされる。当事者は二人とも破廉恥 の罪に当たる(破廉恥は、教会法で人間の人 格に与えられる汚名である)。
 ソフィアは、ミサや懺悔や聖さん式には行 かなくなっていたが、カトリックの信仰は彼 女の身にしみついていた。メキシコで離婚、 再婚してイタリアで新生活を送っている人は たくさんいるのに、ソフィアが有名人である がゆえに、みせしめとして攻撃の的にされた のである。
 多くの人びとがバチカンに追随してソフィ アを攻撃した。これが中世なら、ソフィアと カルロは火あぶりの刑だとさえいうものもい た(長い同棲生活を経て、パリでやっと正式 に結婚が成立するのは、一九六六年四月九日 になってからである)。
 一九五八年、ロンドンでの最初の映画『鍵 』に出演が決まっていたソフィアに嫌がらせ があった。出演辞退まで迫った。だが、ソフ ィアは負けてはいなかった。断固として出演 したのである。
 イタリアの刑法では、誰でも簡単に他人を 訴えることができる。匿名でもかまわないの だ。ソフィアの夫、カルロはある女性から訴 えられた。彼は重婚をしており、自分は不法 な内妻だという手紙を検察官に送った。カル ロはその女性の名前など聞いたこともない。
 だが、手紙を受け取った検察官は、訴訟手 続きを始めなければならない。
 その夫人は、その手紙のなかで、「イタリ アの結婚制度を守るためにも、刑事罰を」と 訴えていた。
 しかし、それにもソフィアは負けなかった。 「世間がなんと言おうと、どんなにひどい制 裁をくわえようとも、私は負けはしない。自 分の正義を確信していましたから」
 自分の良心を最後に裁くのは、自分なのだ ということを信じていた。
 ソフィアは祖国から追われる身になったけ れども、くよくよしたり、自分が有罪になっ た理由を分析したりはしなかった。
「私は正しい。その信念が、私に勇気を与え てくれました」
 そんなソフィアは映画『ふたりの女』でオ スカ−賞を受賞する。
 イタリアを出てから六年の間に、ソフィア は十本ほどの映画に出たが、アルベルト・モ ラビアの『ふたりの女』で、デ・シ−カと一 緒に仕事をしようと考えた。
 この映画は、戦時下のイタリアを舞台にし ていて、ポッフォ−リとナポリでの戦時下の 生活を再現するような作品だった。
 この作品によって、ソフィアは女優として 開眼した。
 一九六二年八月五日、ソフィアはマリリン ・モンロ−の死にショックを受けた。
 ソフィアは一度も、マリリンに会ったこと はなかったけれども、尊敬していた。ひどい 環境から這いあがったマリリンの生き方を敬 愛していた。まるで、姉のようにも思ってい たからだ。
『昨日・今日・明日』(一九六三年)で、ソ フィアはまたすばらしい演技を披露した。  しかし、同時にカルロの子どもを流産する という悲劇も味わった。
 その後、何回か流産を経験したが、一九六 八年十二月一日に、長男カルロ・ポンティ・ ジュニアが誕生した(子どもを身ごもってい る間に『キッチンより愛をこめて』という料 理本を書いた)。
『ひまわり』(一九六一年)『結婚宣言』( 一九七〇年)『旅路』(一九七二年)『愛の 終わり』(一九七四年)『スペシャル・デイ 』(日本未公開)など、ソフィアはカルロの 製作による作品に出演してきた。
「世界一見栄えのする女優」にも、選ばれた ともあるソフィアだが、外見の華やかさだけ ではなく、内に秘めた強さは、バチカンから の攻撃をもはねのけたのである。
 チャプリンの言葉を支えにソフィアは支え に生きてきた。
「欠点があれば、それを克服しなければならな い。完全に幸福な女性になるには、学ばなけれ ばならないことがひとつある。生きていくうえ で、もっとも大切なことは、ノ−と言うこと。 ノ−と言えなければ、ソフィア、それは重大な 欠陥だよ」
 ソフィアの元気な秘密がある。
「いいことがあるように、何か赤いものを身に つけることにしてるの」
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