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サラ・ベルナ−ル(女優) Sarah Bernhardt
1844.10.22−−1923.3.2

奇跡 miracle

 十九世紀から二十世紀にかけてフランスの 演劇界でもっとも愛された大女優、サラ・ベ ルナ−ルは、ヴィクトル・ユ−ゴ−の『リュ イ・ブラス』、ラシ−ヌの『フェ−ドル』、 小デュマの『椿姫』などの傑出した演技で、 世界的に賞賛を浴びた。
 あるときは感情をほとばしらせ、あるとき は情熱を内に秘めた彼女の演技に、多くの人 びとが目を見張った。友人で女優でもあった エレン・テリ−は「まるで奇跡」と言ってい る。
 サラは一八四四年に、ブルタ−ニュで生ま れた。私生児だった。母は帽子のデザイナ− だったが、ある貴族の愛人だった。
 病気がちな少女サラは肺結核を患い、成人 するまで生きながらえるかどうか危ぶまれて いた。十六歳のころには、修道女になる決心 をしていたが、当時母の恋人だったモルニ− 公は、サラに女優の道を歩ませようとしたの だった。
 ナポレオン三世と異母兄弟の彼は、自らの 権威を利用して、サラをコンセルバトワ−ル に入れ、続いて有名なコメディ・フランセ− ズへと進ませた。だが、一八六三年には、サ ラは些細なことで怒りを爆発させ、発作的に 仲間の女優に平手打ちを食らわせたために、 コメディ・フランセ−ズをやめざるを得なく なった。
 金髪の巻き毛に華奢なからだのサラは、感 情豊かな、しかも個性的な女性だった。
 オデオン劇場で大デュマの劇『キ−ン』に 出演したサラは、この舞台で初めて認められ た。
「華やかに洗練されたやせっぽち」は、次々 と大ヒットを飛ばし、一八八〇年には彼女自 ら一座を率いて、世界各地を巡業するように なった。
 しかし名声を得た後も、サラは舞台恐怖症 に始終悩まされていた。演技上の感情表現と 生来の神経質が渾然となり、カ−テン・コ− ルを終えたとたんに、気絶してしまうことが 何度もあった。おまけにやっかいな肺結核か らも解放されることもなく、咳の発作と喀血 にも悩まされ続けた。
 だが、たとえ肉体は虚弱でも、強靱な精神 力は目を見張るばかりだった。睡眠も僅かし かとらず、十人分のエネルギ−を秘めている とさえいわれた。
 一九〇五年、リオ・デ・ジャネイロで『ト スカ』を上演中、手すりを飛び越えて、自殺 する場面で、手すりの向こうに用意されてい るはずのマットレスがなかった。サラは右膝 をしたたか打ちつけた。四歳のときに窓から 落ちて傷めたところと同じ箇所だった。
 一九一五年に、数週間ギブスで固定したあ とに壊疽が起こったために片足を切断。パリ の自宅で生涯を閉じる直前まで、決められた スケジュ−ルをこなした。
 何千というラブ・ロマンスに身をゆだねて きたサラは、自らを「私の生きた時代でもっ とも恋多き女」と堂々と公言してはばからな かった。
 もともと、彼女の母はサラを貴族相手の高 級娼婦に仕立てようと考えていた。だが、喧 嘩早い上に自立心旺盛な少女には、「お金に は不自由しないけれど、従順を強いられる生 活」は性格的に向かなかったのだ。
 初めてのロマンスは彼女が十八歳のとき、 相手はケラトリ−伯爵だった。しかし、心か ら愛したのはリ−ニュのアンリ王子で、彼と の間にはサラが二十歳で産んだ息子モ−リス がいる。
 サラは二十代ですでにヨ−ロッパ中でもて はやされるようになった。ギュスタ−ヴ・ド レ、ヴィクトル・ユ−ゴ−、エドモンド・ロ スタン、オスカ−・ワイルド、さらにエミ− ル・ゾラといった著名な崇拝者が数多くいた。  彼女も才能豊かな男たちに魅せられた。  旺盛な好奇心と情熱をもつ、恋多き女では あったが、サラが自制心を無くすことはめっ たになかった。少女時代の環境の影響による ものだろう。
 サラはそのころの思い出を語っている。 「母は男の出入りが絶えなかった。見れば見 るほど私はその男たちが嫌いになっていた」  サラの男遍歴の凄さを物語る逸話がある。 『サラ・ベルナ−ルの恋』と題されたパンフ レットには、ロ−マ法王を含むヨ−ロッパ中 の国家首席を彼女は誘惑したと記されている。  プリンス・オブ・ウエ−ルズ(のちのエド ワ−ド七世)やルイ・ナポレオンの甥のナポ レオン王子(作家のジョルジュ・サンドから 紹介された)との「特殊な関係」が事実だっ ことは証明されている。
 ヨ−ロッパの他の権力者に関してはサラが ベッドまでともにしたかどうかはともかく、 少なくともその心を惹きつけたことは間違い ない。
 オ−ストリアのフランツ・ヨゼフ皇帝、ス ペインのアルフォンソ王、さらにはイタリア のウンベルト王はプレゼント攻めにしてサラ を喜ばせた。また、デンマ−ク王のクリスチ ャン九世は自家用ヨットをサラに貸し与え、 オ−ストリア皇太子フリ−ドリヒは自分の城 を自由に使わせた。
 舞台に上がった彼女が、心ゆくまで感情を 表現してきらきら輝いて見えるのは、お気に 入りの男たちがつねに自分の恋人としてそば にいてくれるという満足感で、興奮の極みに あったからだ。もっとも、そんな関係も舞台 での公演の間だけというものも少なくなかっ た。
 しかし、一度でも彼女の虜になったことの ある男は、みながみな後々までよき友人とし て交際を続けるのだった。晩年になってから も、彼女は心を動かされる男たちに恋の情熱 を燃やし続けた。
 アメリカ巡業中に、六十八歳のサラは三十 五歳も年下の俳優のルウ・テンジャンと恋を して、四年間の同棲生活に入っている。オラ ンダ生まれのルウは金髪で、ヘラクレスのよ うな逞しい男だった。  彼はサラの恋人としてすごした時期を「私 の人生で最良の四年間だった」と告白してい る。
 サラは生涯に一度だけ結婚している。相手 はとびきりハンサムの遊び人、アリストティ −ド・ジャック・ダマラ、一八九二年のこと だ。彼女より十一歳年下の、社交的なギリシ ア人俳優だった。カサノヴァとマルキ・ド・ サドを混ぜ合わせたような男で、サラを自慢 することに快感を覚えていた。
 二人は一年もたたないうちに別居したが、 ダマラが死ぬ数カ月間、サラが面倒を看たの だった。一八九〇年、彼はモルヒネとコカイ ンの併用で廃人同然となって死んだ。
 サラの奇行はいくつもあるが、なかでも内 側に豪華なサテンを張った紫壇の柩について は知られている。
 まだ十代のころ、病弱だったため、「醜い 棺桶」に寝かされるのを嫌って、母にせがん で買ってもらったのだった。サラはその柩の なかで眠っている自分の姿を写真に撮らせて いる。そのなかで恋人とセックスをしようと したこともある。
 もっとも、サラのビュ−ティ・バスなら一 度試してみるのもいいかもしれない。
 大麦、米、ぬか、オ−トミ−ル、ラベンダ −を煮たのち、重炭酸ナトリウムとホウ酸を くわえて湯にませるというもの。美容効果が 期待できそうだ。
 一九二二年、サラは公開舞台稽古の当日に、 倒れた。
 翌年の一月中旬に回復し、二月『女占い師』 撮影中に再び倒れ、二十五日昏睡状態のまま に亡くなった。
 世界中の演劇人は深い悲しみに包まれた。  祭壇は何千ものバラで飾られた。
 イギリスでは王室が追悼会を催し、日本で も文化人による追悼会があった。
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