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与謝野晶子(歌人)
1876.12.7−−1942.5.29
恋文 love letter
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春
のうつくしきかな
春みぢかし何に不滅の命ぞとちからある乳
を手にさぐらせぬ
『みだれ髪』で、恋愛と官能の歓びを高らか
に詠いあげ、情熱の歌人の名をほしいままに
した与謝野晶子。彼女が紡ぎ出す奔放で衝撃
的な歌に若者たちが熱狂し、保守的な大人た
ちは「淫らな歌」「世を毒する思想」と嫌悪
感を抱いた。晶子と鉄幹の不倫の恋がこの歌
集と重ね合わさって、世人の顰蹙をかったの
である。
一八七六(明治十一)年十二月、大阪堺で
江戸時代から続く和菓子の老舗、駿河屋の三
女として晶子は生まれた。名字は鳳、名を志
ようと名づけられた。鳳家にはすでに二人の
異母姉がいて、後妻だった母は、先妻の娘に
義理立てして、晶子に継ぎのあたった地味な
服しか着せなかった。
父、宗七は絵や俳句もたしなむ趣味人で、
子どもの教育にも熱心だった。そのため、晶
子は早いうちから漢学塾に通わせてもらい、
のちに堺女学校の本科に進んでいる。小さい
ころから本の虫だった彼女は『源氏物語』の
華麗な世界を夢見、自分も早く、源氏のよう
な男性と命賭けの恋をしてみたいと思いつめ
る早熟な少女だった。
学校を卒業すると、晶子は家業を手伝い始
めた。帳面付けの合間を縫って『大鏡』『源
氏物語』などの古典を読んでは、そのなかに
出ている和歌を真似て、詩や歌を作ったりし
た。
晶子は短歌の勉強を本格的に始めると、堺
敷島会や浪華青年文学会といった小さな団体
の雑誌に詩や歌を発表するようになる。この
サ−クルの会員で弟籌三郎の友人である河野
鉄南を知ったことで、その後の晶子の人生は
一変する。というのも、彼は当時、若者を熱
狂させていた新進気鋭の詩人、与謝野鉄幹と
幼なじみだったからである。
与謝野鉄幹が大阪に講演に来た折り、鉄南
に連れられて大阪に出向いた晶子は初めて鉄
幹に会う。晶子二十一歳。「虎の鉄」とあだ
名されたその男は、晶子が思い描いていたよ
りも、はるかに魅力的な色白で長身の美青年
であった。
自信に溢れた熱い口調で語る彼に、晶子は
強く魅かれた。商売一筋の人間に囲まれて育
った晶子にとって、文学に命を賭けた鉄幹は、
この世とも思えないほど凛々しく美しかった。
歌や詩の機関誌に自作を投稿している晶子の
ことを鉄幹は知っていて、『明星』(明治三
十三年創刊)にも投稿するように勧めてくれ
た。やがて、晶子はその編集雑務を手伝うこ
とになり、二人の仲は急速に深まった。
鉄幹が大阪にいるあいだ、晶子は両親の目
を盗んで、なんども彼に会うことができた。
それは山川登美子のおかげだった。
登美子は晶子よりも、一つ年下だったが、
女学校の先生で、晶子の家族の信用もあった。
晶子はいつも登美子と二人で鉄幹と会ってい
た。
一八九九年(明治三十四年)の一月、晶子
と鉄幹は京都・栗田山の旅館に泊まった。そ
後の晶子の歌は大きな飛躍を遂げることにな
る。
やわ肌のあつき血潮にふれも見で、さびし
からずや道を説く君
同年六月上旬、晶子は妻子ある鉄幹と暮ら
すために上京した。が、新橋駅のホ−ムには
出迎えてくれるはずの鉄幹の姿はなかった。
彼は妻滝野のもとを抜け出せないでいた。
ある日、滝野がやってきて、別れ話の大喧
嘩になった。晶子は多摩川に投身自殺をする
と言い、鉄幹は滝野を殺し、自分も死ぬと叫
んだ。
八月、初期の歌三百九十九首を集めて、晶
子は処女歌集『みだれ髪』を刊行した。表紙
は藤島武二の装丁で、ハ−ト型のなかに乱れ
髪にくるまれた女の顔を描き、その中央に矢
が刺さって花がこぼれている。
『みだれ髪』の歌集には髪、血、肌、指、乳
房、唇などが歌われ、奔放なエロスがあふれ
ている。
この歌集は圧倒的に賛美され、一方で、反
感や嫌悪を示す声も少なくなかった。猥褻な
歌は人心に害を及ぼすと極論したものもあっ
た。曖昧な言葉が多すぎて何を言っているの
かわからないという批判も多かった。
十月、晶子と鉄幹は正式に結婚した。『み
だれ髪』の成功は晶子を一躍有名作家にし、
『明星』も活気づいた。だが、発行部数はせ
いぜい六百部どまりで、赤字の連続。晶子は
母が送ってくれた着物をほとんど質屋に運ん
だ。
一九〇〇(明治三十五)年の十月発行の『
明星』に初めて、晶子と鉄幹の信奉者である
石川啄木の歌が載った。
一九〇一(明治三十六)年八月、堺の実家
では弟の籌三郎が結婚した。
翌年二月、日露戦争が始まり、弟の籌三郎
が召集された。弟は旅順攻撃のために編成さ
れた第三軍に属していた。その年の九月号の
『明星』に発表されたのが「君死にたもふこ
となかれ」、四十行の長編詩である。時代は
明治。危険思想だと、批判を浴びることにな
る。
第二次大戦後、「君死にたもふことなかれ
」は、反戦詩としてとりあげられ、その一方
で反戦詩としては不徹底だという批判も起き
た。
しかし、晶子は作家が真の心を真の声に出
す以外、作品の書き方はないと「ひらき文」
を書いて猛然と抗議した。
相変わらず与謝野家は貧乏だった。晶子の
外出着は夏冬一着ずつ、子どもの牛乳や砂糖
も五銭以上買えない。晶子はそのなかで夫(
つま)恋の歌を詠い続ける。
晶子は、十一人の子どもを育てた。そして
二十四冊の歌集、十五冊の評論集と小説、詩
集、童謡などを残している。
明治四十五(大正元)年五月五日、晶子は
夫鉄幹を追ってパリへ向けて出発した。百首
におよぶ歌を書いて晶子は資金を作ったので
ある。
五カ月ほどの滞在中に晶子はこんな歌を詠
んだ。
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君もコクリ
コわれもコクリコ
シベリア鉄道経由で晶子がパリに着いたの
は、五月十九日。パリを足場にツ−ル、ロン
ドン、ベルギ−、オランダ、オ−ストリア、
ベルリンなどを見物し、ミュンヘンに入って
いる。
このときの渡欧体験は、大正五年から平塚
らいちょう(雷鳥)との「母性保護論争」の
下地になっている。その論争をしていたとき、
晶子は十一人目の子どもを宿していた。
昭和八年の年末、一家で西那須野温泉で年
を越す予定になっていた。その旅館で晶子は
狭心症を起こした。
昭和十年、妻にかわって死ぬと歌で祈った
鉄幹は、感冒をこじらせて入院し、三月二十
六日、息を引き取った。
彼女はそれから死ぬまでの七年間に、七人
の娘と息子を結婚させ、その費用を筆で稼い
だ。昭和十四年には、三十年近く続けてきた
『新新訳源氏物語』が完成した。
六十歳を過ぎた晶子は日本各地の旅に精力
的に出かけ、多くの旅の歌を作った。
昭和十五年五月、晶子は入浴中に脳溢血で
倒れた。以後、左半身付随となる。
病床で、太平洋戦争の開始を聞いた晶子は
昭和十七年五月十八日に、狭心症、尿毒症を
併発して死亡した。
鉄幹がこの世を去ってから七年後のことで
ある。
晶子は、大好きな紫の裾模様を着て、ハン
ドバッグには、愛用の万年筆と眼鏡、ノ−ト
などが入れられた。
晶子は晩年になっても「歌を上達しようと
思ったら、恋をすること、そして歌を忘れな
いようにすること」と弟子に言っていた。
晶子の一生は、一人の男、鉄幹への恋で貫
かれたものであった。
多摩霊園には、二つ並んだ同型の将棋に似
た白御影石の墓がある。右側が晶子の墓だ。
その前に、「今日もまたすぎし昔となりた
らば並びて寝ねん西の武蔵野 晶子」の歌碑
がある。
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