 |
|
![]() |
![]() |
フリ−ダ・ロレンス(作家 D・H・ロレンスの妻) Frieda Lawrence
1879.8.11−−1956.8.11
自然の女 natural woman
「きみは人生の天才さ」
天才作家のD・H・ロレンスがそう言った
女性−−それがフリ−ダ・ロレンスだ。才能
と地球を股にかけた型破りな生き方が作家に
多くのものを与えた。
プロイセンの貴族の家の生まれ、謹厳な英
語教師として生きたノッティンガム時代。コ
カイン中毒の精神分析医と、自由恋愛提唱者
との奔放な関係、そして夫と三人の子どもを
捨てて、のちに二十世紀を代表する作家とな
るロレンスとのスキャンダル。
一九一二年四月のある日、ロレンスはフリ
−ダの夫、ア−ネスト・ウィ−クリ−から昼
食に招かれた。ア−ネストは、ノッティンガ
ム大学の言語学教授で、ロレンスはかつての
教え子だった。
ロレンスは小学校で教えながら金を貯め、
ノッティンガム大学に二十一歳のときに入学
した。ウィ−クリ−宅に招かれたときには、
すでに何編かの詩と『白孔雀』や『侵入者』
などの作者でもあった。
そのとき、フリ−ダは気取らないロレンス
に魅力を感じた。
「目に見える以上の何かがあり、それでいて
変わった人」とフリ−ダは思った。
食前の三十分間ほど、フリ−ダとロレンス
は、彼女の部屋で話をした。
ロレンスはもう、女たちのことを知るのは
やめにしたとむきになって語ったので、フリ
−ダはおかしくなった。
その後、しばらくしてロレンスはフリ−ダ
に手紙を送ったが、それには「あなたはイギ
リス中で一番美しい婦人です」と記されてあ
った。
イギリスの女性といっても、そんなにたく
さんの女性を知ってはいないはずなのに、ど
うしてそんなことが言えるのか、とフリ−ダ
は返事を書いた。
その日は復活祭の日曜日で、フリ−ダの子
どもたちは庭でイ−スタ−・エッグ探しに夢
中になっていた。女中たちが出かけていたの
で、フリ−ダは自分でお茶を出そうとしたの
だが、ガスのつけ方がわからない。ロレンス
は、フリ−ダを叱責した。
フリ−ダが、ロレンスに会ったときは彼女
は三十一歳で、結婚していた。すでに三人の
子どもまでいたが、そのときまでにフリ−ダ
は女として望むものは、ほとんど手にしてい
るように思われた。
しかし、ロレンスは、フリ−ダのうわべだ
けの幸福を見抜いていた。
ロレンスの強引な誘いに、フリ−ダはつい
に家を出ることにしたが、二人は会って、ま
だ六週間しかたっていなかった。
が、彼女はすべてを捨てる決意をした。
ロレンスとフリ−ダの新しい冒険に満ちた
生活が始まった。
フリ−ダ・リヒトホ−フェンは、一八七六
年八月、アルザス=ロ−レンス地方のメッツ
で生まれた。父フリ−ドリッヒは男爵で、負
傷のため若くして退役した軍人だった。母ア
ンナが活力に溢れていて、一家を支えていた。
フリ−ダは三人姉妹の真ん中、日焼けした
少女で、麦藁色の毛が逆立ち、おてんばだっ
た。いくつかの恋を経験して、フリ−ダは十
九歳で社交界にデビュ−。舞踏界では、プロ
シア皇帝の目にも留まるようになった。
社交界にデビュ−したての、一八九八年の
初め、フリ−ダは黒い森で、休暇を過ごして
いた。そこで当時フライブルク大学で講師を
していたア−ネスト・ウィ−クリ−と出会っ
たのだった。
二人は翌年の一八九九年八月、フライブル
クで結婚した。そのとき、フリ−ダ二十歳、
ア−ネストは三十四歳。
フリ−ダと夫ア−ネストとの結婚生活は、
単純で変化に乏しいものだった。
平凡な結婚生活を送っていた二人の仲に現
れたロレンスに、フリ−ダは恋をした。
フリ−ダは激情型で、ロレンスと激しく言
い争ったときに、いきなりイザ−ル河に飛び
込んで泳ぎ切り、たまたま向こう岸で働いて
いたキコリと性交した。
一九一四年五月二十八日に、フリ−ダとア
−ネストとの離婚が正式になった。同年の七
月十三日、フリ−ダはロレンスと正式に結婚
した。結婚の立会い人は、文芸評論家のミド
ルトン・マリと、その愛人で作家キャサリン
・マンスフィ−ルドだ。
登記所に行く途中、ロレンスは突然、タク
シ−を停めて宝石店に駆けこむと、花嫁のた
めに結婚指輪を買って戻ってきた。フリ−ダ
は十四年前、ア−ネストがはめてくれた指輪
を見つめ、ゆっくりと抜き取ると、結婚の立
会いになってくれた作家のキャサリ−ン・マ
ンスフィ−ルドに与えた。キャサリ−ンは、
その指輪を生涯大切にもっていた。
じつはは、フリ−ダはロレンスと会う前、
ノッティンガムである男と浮気をしていた。
ロレンスとフリ−ダが結婚後、まもなく第
一次世界大戦が始まったが、ロレンスは作家
活動を活発に行った。哲学者のバ−トランド
・ラッセルやマリらをうながして人間の再生
を願うユ−トピア「ラナニム」の建設に熱中
した。
一九一五年に、『虹』が出版されたが、発
禁処分を受けた。その後、すぐにロレンスの
最高傑作、『恋する女たち』が書かれた。
ロレンス夫妻は、「迷える魂たちのコロニ
−」建設の夢を追って、ニュ−メキシコの
タオスに居をかまえた。それはメイベル・ド
ッジ・ル−ハンというインディアンを四人目
の夫にした裕福なアメリカ女の強い誘いによ
るものだった。彼女は、『海とサルディニア
』を読んで深く感動して、「このタオスとい
う土地とインディアンを本当に見ることがで
きるのは、この人しかいない」と思ったから
だった。
ロレンス夫妻は、一九二二年二月二十六日
にナポリを船出して、途中セイロン、オ−ス
トラリアを経て、同年九月四日に、サンフラ
ンシスコに到着した。タオスに着いたのは、
ロレンス三十七歳の誕生日、九月十一日のこ
とだ。
それから、このメイベルとフリ−ダの二人
の女とロレンスを巡る争いが始まった。
「あなたはロレンスにとって適切な女だとは
思えない」とメイベルが言った。
「じゃあ、あなた、天才と生活してごらんな
さい」とフリ−ダは言い返した。
しかし、ロレンスの健康は急速に衰えてい
た。夫妻は、タオスを出て、イギリスの生ま
れ故郷に向かった。
その後、一九二七年三月ころには、ロレン
ス夫妻は、フィレンツェ近くのスカンディッ
チにあるヴィラ・ヴィレンダに移り住んでい
たが、ここで『チャタレ−夫人』が完成され
た。
「普通の人間だったら、とっくの昔に死んで
いただろう」
と医者が言うほど、ロレンスのからだは衰
弱していた。メキシコの暑さ、それにメキシ
コ・マラニアに冒されていた。
ロレンスの病は、重くなり、南仏ニ−スを
見下ろす山のヴァンスの診療所に移された。
そこで、ロレンスは一九三〇年三月二日に死
んだ。肺結核だった。
フリ−ダは、彼の死を深く悼み、その遺言
執行人となった。
「ロレンス、私のロレンツァ−、あの愛し、
愛された人が・・・死んでしまったのです」
(『私ではなくて風が・・』)
ロレンスの死後、二十六年間、フリ−ダは
タオスのラナニムで元イタリア軍指折りの狙
撃兵といわれたアンジェリ−ノ・ラヴァッリ
と幸せに暮らした。
一九五六年八月十一日、日曜日、フリ−ダ
は亡くなった。その日は彼女の誕生日に当た
っていた。
|
|
|
|
 |